扉に貼られた「大歓迎」の文字を、そのまま信じてよいものだろうか。
歓迎されている、選ばれている——そう思い込んだ瞬間、人は次に何を求められても、疑うことをやめてしまう。空腹をかかえた二人の紳士が、山奥で見つけた一軒の洋館に迷い込んでいく。次々と現れる扉には、丁寧な言葉で細かな指示が書きつけられていて、彼らはそのたびに、もっともらしい理由を自分で考えては、素直に従っていく。愛想のよい言葉の裏に、本当は誰の都合が隠れているのか。それを確かめる前に、扉はもう静かに開いてしまっている。
この作品を、いま読む理由
宮沢賢治の『注文の多い料理店』は、じつにシンプルな仕掛けの上に成り立っている短編童話です。山奥で獲物にはぐれた二人の紳士が、一軒の西洋料理店にたどり着き、次々と現れる扉の指示に従いながら奥へ進んでいきます。「注文の多い料理店」というタイトルそのものが、この物語の最大の企みです。読者は当然、「客が注文の多い店だ」という意味で読み始めます。しかし物語が進むにつれて、この「注文」の主語が、いつのまにか入れ替わっていることに気づかされます。
本稿では、この主語の反転——誰が誰に対して「注文」しているのか——を軸に、『注文の多い料理店』を読み解いていきます。
扉に書かれたひとつひとつの文言は、額面どおりに読めば「もてなし」のことばです。けれども同じ文言を、店の側から読み直すと、まったく違う意味が浮かび上がってきます。二人の紳士がこの反転にどれだけ長く気づかずにいられたか、そして読者自身もまた、彼らと同じように文言を都合よく読んでしまってはいなかったか。この記事は、その仕掛けをたどり直す試みです。
作品の輪郭
いつ、誰が書いたか
『注文の多い料理店』は、1924年(大正13年)12月1日に発表されました。盛岡市杜陵出版部・東京光原社から刊行された童話集『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』の表題作です。「イーハトヴ」は、宮沢賢治が故郷・岩手をモデルに思い描いた理想郷を指す造語だと言われます。この童話集は、賢治が生前に刊行した数少ない著作のひとつで、当時は広くは読まれなかったとされますが、没後にその評価は大きく高まっていきました。
どんな話か
物語は、イギリスの兵隊のような格好をした二人の若い紳士が、山奥へ狩りにやってくる場面から始まります。しかし獲物は一匹も見つからず、案内の猟師ともはぐれ、連れていた犬まで急に倒れて死んでしまいます。途方に暮れて道を探すうち、二人は西洋造りの一軒の家にたどり着きます。玄関には「RESTAURANT 西洋料理店 WILDCAT HOUSE 山猫軒」という看板が出ていました。
看板には、英語と日本語がわざわざ並べて書かれています。「RESTAURANT」と「西洋料理店」、「WILDCAT HOUSE」と「山猫軒」。西洋への憧れと、山奥という土地の不釣り合いが、この二重表記の時点ですでに漂っています。
空腹をかかえた二人は喜んで中へ入り、廊下を進んでいきます。すると扉が次々と現れ、そのたびに何か指示が書きつけられています。水いろのペンキ塗りの扉があるかと思えば、黒塗りの扉もある——同じ廊下を進んでいるはずなのに、扉の意匠が変わるたびに、二人の期待もまた、少しずつ膨らんでいくようです。二人はその指示に、いぶかしみながらも従い続けていきます。この先、扉の奥で何が待っているのかは、本作の核心に関わるため、この輪郭紹介では触れずにおきます。
論点1:「注文」は誰のものか——タイトルに仕込まれた二重の意味
読者としてまず驚かされるのは、招かれたはずの二人の紳士が、実は注文をする側ではなく、注文をされる側だったという反転です。「注文の多い料理店」という題名を最初に目にしたとき、私たちはごく自然に、客が細かい注文をつける、あるいは客の要望に丁寧に応じる、そんな店を思い浮かべます。しかし物語を読み進めるうちに、この「注文」の主語は静かに入れ替わっていきます。
まず、店の扉に掲げられた言葉を順に見ていきます。最初の一枚には、こう書かれていました。
「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」
続く一枚には、さらに踏み込んだ歓迎の言葉が並びます。
「ことに肥ったお方や若いお方は、大歓迎いたします」
初読では、これはただの愛想のよい呼び込みに読めます。けれども、あとになってふり返れば、この「肥ったお方」という条件づけほど、恐ろしい伏線もありません。歓迎されているのは、二人の人格でも身分でもなく、単に肉づきのよい身体だったのです。
さらに踏み込むなら、二人が最初に山で漏らした言葉も、この「歓迎」の伏線として効いてきます。二人は鹿を撃ちたいと言いながら、「黄いろな横っ腹」を思い浮かべ、獲物の身体を品定めするような目で語っていました。狩る側だったはずの二人のまなざしが、そっくりそのまま、扉の向こうから自分たちへ向けられていました。「肥ったお方」ということばは、彼ら自身が獲物に向けていた視線の、そのままの照り返しだったとも読めます。
さらに奥へ進むと、扉にはこう記されています。
「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」
「注文はずいぶん多いでしょうがどうか一々こらえて下さい。」
このタイトルそのものを反復するかのような一文に出会っても、二人の紳士はまだ「注文の多い」を、客への手厚いサービスを表す言葉としてしか受け取りません。「こらえて下さい」ということばさえも、彼らには「対応に手間取るかもしれないが我慢してほしい」という、店側の詫びの言葉としか映らないのです。
この時点ではまだ「注文」は、レストランが客に提示するルール程度のものとして読める仕掛けになっています。ところが奥へ進むにつれて、その「注文」の数はどんどん増えていきます。鉄砲と弾丸を置け、帽子と外套と靴を取れ、金物類を外せ、クリームを塗れ、香水をかけろ——一つひとつは些細な指示でも、積み重なるほどに不穏さが増していきます。
そして物語の終盤、ようやく二人はこの言葉の正体に気づきます。
「沢山の注文というのは、向うがこっちへ注文してるんだよ。」
「注文」という同じ一語が、客から店への要望ではなく、店から客への要求だったと判明する瞬間です。二人はさらに、その意味をこう言い当てます。
「西洋料理店というのは、ぼくの考えるところでは、西洋料理を、来た人にたべさせるのではなくて、来た人を西洋料理にして、食べてやる家とこういうことなんだ。」
招かれる客のつもりでいた二人は、実のところ、上質な食材として丁重に扱われていたにすぎませんでした。これはある意味で皮肉な「歓迎」のされ方です。肥っていることを歓迎され、髪を整えることを求められ、肌にクリームを塗りこまれ、香水をかけられ、塩をもみ込まれる。一つひとつの指示は、客をもてなす作法ではなく、食材を調理する手順そのものだったのです。
この仕掛けの巧妙さは、宮沢賢治が「注文」という一語の多義性だけで、読者の解釈をまるごと引っくり返してしまう点にあります。私たち読者も、扉の文言を読むあいだ、二人の紳士とほとんど同じ速度で、同じように好意的な意味を当てはめていたはずです。物語のタイトルに、すでに答えは書いてあった——それに気づくのは、たいてい一度読み終えたあとになります。
だからこそ、この作品は再読に値します。一度結末を知ったうえで扉の言葉を読み直すと、最初は気づかなかった不穏さが、随所に姿を現してきます。「大歓迎」も「注文の多い」も、二度目に読めば、もう無邪気には受け取れません。仕掛けを知ってなお読み返したくなる、という点にこそ、この短い童話の底力があります。
論点2:段階的にエスカレートする指示と、都合のいい解釈
読者としてまず引っかかるのは、最初のうちは至極まっとうに見えた指示が、扉を一枚くぐるごとに、少しずつ常軌を逸していく点です。それでも二人の紳士がその変化を最後まで受け入れ続けてしまったのは、権威への憧れだけでなく、単純な空腹のためでもあったのではないでしょうか。
そもそも二人は、山に入る前から、獲物を「金額」でしか捉えていませんでした。
獲物が見つからなければ「山鳥を拾円も買って帰ればいい」と言い、犬が死んだときには二千円台の「損害」を口にします。二人にとって生き物の値打ちは、はじめから売買の対象として測られていたのです。だとすれば、扉の向こうの指示にどれほど法外な要求が並んでいても、彼らはそれを「対価を払えば受け入れられるサービス」の一種として処理してしまいます。それは、彼らにとってごく自然な反応だったのかもしれません。
すでに廊下に入ってすぐ、二人はこの家の異様な戸の多さに気づいてはいました。
「どうも変な家だ。どうしてこんなにたくさん戸があるのだろう。」
けれども、その違和感もすぐに片づけられてしまいます。
「これはロシア式だ。寒いとこや山の中はみんなこうさ。」
まだ何も要求されていない段階から、二人はすでに、疑問を検証するのではなく、疑問を解消するための物語を自分で作り始めていたのです。
最初の指示は、レストランのマナーとして十分に納得できるものでした。
「鉄砲と弾丸をここへ置いてください。」
これを見た紳士の一人は、「鉄砲を持ってものを食うという法はない」と、ごく常識的に受け止めます。ところが、この程度の解釈はここまでです。次の扉で帽子と外套と靴を取るよう求められたときには、すでに理由づけの質が変わっています。
「たしかによっぽどえらいひとなんだ。奥に来ているのは」
「決まりだから」という納得は、いつのまにか「よほど偉い人が来ているのだろう」という、自分たちに都合のよい推測にすり替わっています。クリームを塗るよう求められる段になると、この推測はさらに大胆になっていきます。
「どうも奥には、よほどえらいひとがきている。こんなとこで、案外ぼくらは、貴族とちかづきになるかも知れないよ。」
指示が不自然になるほど、彼らの解釈は反比例するように華やかになっていく——疑いを打ち消すための理屈が、疑うべき材料そのものに比例して増強されていく様子だと言えます。香水だと思って振りかけたものが酢のような匂いだったときも、「下女が風邪でも引いてまちがえて入れたんだ」と、あくまで些細な手違いとして片づけてしまいます。
ここで見逃せないのが、彼らを立ち止まらせなかったもう一つの力——空腹です。
早く何か暖いものでもたべて、元気をつけて置かないと、もう途方もないことになってしまうと、二人とも思ったのでした。
クリームを顔や手足に塗るよう命じられた場面では、その空腹がもっとも露骨な形で表れます。
それでもまだ残っていましたから、それは二人ともめいめいこっそり顔へ塗るふりをしながら喰べました。
顔に塗るべきクリームを、こっそり口に運んでしまう二人の姿は、滑稽であると同時に象徴的です。
判断力を鈍らせているのは、権威への憧れだけでなく、いま目の前にある空腹という、もっと切実な欲求でもあったのです。
一度この廊下を進みはじめた以上、後戻りして飢えたまま山を彷徨うよりは、次の扉を開けたほうがましだ——そう思わせるだけの空腹が、二人の判断力をじりじりと侵食していきます。おかしいと感じながらも、ここまで進んだのだから、と歩みを止められない心理は、都合のよい解釈を重ねるほど、後戻りする勇気を失っていく仕組みをよく表しています。
けれども、この解釈の運動にも限界はあります。塩をもみ込むようにという最後の指示に至って、二人はようやく「どうもおかしいぜ」「ぼくもおかしいとおもう」と、はじめて互いの不安を言葉にします。都合のよい理屈を積み重ねられるだけ積み重ねたその先で、ついに理屈が追いつかなくなる瞬間が訪れるのです。空腹と権威への憧れが二人を押し進めてきた廊下の果てに、何が待っていたのか——それは、次の論点でたどることにします。
論点3:気づいたときにはもう遅い——最後の反転と、それでも救われる結末
振り返ってみれば、この物語は冒頭から、二人が自然のなかで異物であったことを示していました。「鳥も獣も一疋も居やがらん」とぼやく二人に対して、山そのものが応答するように、犬が突然倒れ、案内の猟師さえ姿を消してしまいます。獲物を狩るはずだった山で、狩る側と狩られる側の力関係が、すでに静かに逆転しはじめていたのです。西洋料理店での顛末は、この予兆が最終的な形をとったものにすぎません。
食べさせてもらう客のつもりでいた二人は、気づいたときにはすでに、食べられる食材の側に回っていました。塩を体にもみ込めという指示に「どうもおかしいぜ」と顔を見合わせた二人は、ついに事の次第を悟ります。恐怖はすぐに、言葉を奪うほどの震えとなって二人を襲います。
「その、ぼ、ぼくらが、……うわあ。」がたがたがたがたふるえだして、もうものが言えませんでした。
逃げようにも、後ろの戸はもう動きません。
「遁げ……。」がたがたしながら一人の紳士はうしろの戸を押そうとしましたが、どうです、戸はもう一分も動きませんでした。
奥の扉には鍵穴からのぞく二つの青い目玉、そして「さあさあおなかにおはいりください」という言葉——ここに至って、二人はただ泣くことしかできなくなります。この絶望的な状況を破ったのは、思いがけない救い手でした。
そのときうしろからいきなり、「わん、わん、ぐゎあ。」という声がして、あの白熊のような犬が二疋、扉をつきやぶって室の中に飛び込んできました。
物語の冒頭、この二疋の犬は「めまいを起こして、しばらく吠って、それから泡を吐いて死んでしまいました」と語られていた、あの犬たちです。死んだはずの犬が、なぜここで生きて戻ってくるのか、物語ははっきりと説明しません。けれども、この不思議な符合そのものが、この作品の急所を突いています。冒頭で犬が倒れたとき、二人が漏らした言葉を思い出してみます。
「じつにぼくは、二千四百円の損害だ」と一人の紳士が、その犬の眼ぶたを、ちょっとかえしてみて言いました。
「ぼくは二千八百円の損害だ。」と、もひとりが、くやしそうに、あたまをまげて言いました。
命を金額に換算し、悲しむよりも先に「損害」を数えた二人が、まさにその犬たちに命を救われる——この配置は、偶然にしてはできすぎています。軽んじた命が、巡り巡って自分たちを救いにくる構図には、宮沢賢治がくり返し作品に込めた、生き物の命への敬意という主題が、静かに、しかし確かに響いているように思われます。
助け出された二人は、猟師の団子を食べ、山鳥を買って東京へ帰っていきます。物語はここで、二人を罰することも、諭すこともしません。ただ最後の一文が、静かに、消えない代償を告げます。
しかし、さっき一ぺん紙くずのようになった二人の顔だけは、東京に帰っても、お湯にはいっても、もうもとのとおりになおりませんでした。
命を「損害額」として値踏みしていた顔つきは、二度と元には戻りません。
宮沢賢治はこの結末で、二人を殺しも、改心させもしませんでした。ただ、動物の命を軽んじた報いとして、消えない痕跡だけを残したのです。教訓を声高に語るかわりに、二人の顔にその答えを刻みつける——この静かな筆致にこそ、命の重さを軽んじる者への、もっとも手厳しい返答が込められているのかもしれません。タイトルに仕込まれた「注文」の反転が、誰が誰の都合で動いていたかを暴いたように、この結末もまた、誰の命がより軽く扱われていたのかを、静かに問い返しているのです。
もし賢治が、二人をそのまま食べられるにまかせていたら、この物語は単純な因果応報の教訓話で終わっていたはずです。
けれども賢治は、犬という思いがけない存在を差し向けることで、二人に生き延びる機会を与えました。罰でも赦しでもない、この宙づりの結末こそが、読者の側に判断を委ねる余白を残しているのだと思います。
時代を背負う言葉
『注文の多い料理店』が刊行された1924年(大正13年)前後は、日本の児童文学が大きく動いていた時期にあたります。1918年に鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊して以降、子どもに大人の説教臭い教訓譚を与えるのではなく、芸術性の高い創作童話を届けようとする運動が広がっていました。宮沢賢治の童話も、こうした大正期の児童文学の潮流と、時代の空気をともにしていたと考えられます。
ただし、賢治の童話には、同時代の童心主義的な作品とは一線を画す独特の手触りがあります。それは、自然や動植物を、無条件にやさしい存在としては描かない点です。『注文の多い料理店』の山猫たちは、二人の紳士を平然と食べようとしますし、他の作品でも、生き物が生き物を糧として生きていく厳しさが、繰り返し描かれていると言われます。動物や植物の命を軽々しく扱う者への視線の鋭さは、賢治の童話に一貫して流れる主題のひとつだとされます。
「イーハトヴ」ということばは、この童話集だけでなく、賢治の他の作品にも繰り返し登場する、いわば賢治文学全体を貫くキーワードのひとつです。そこは、現実の岩手でありながら、同時にどこにもない理想の郷でもあるという、二重の性格を持つ場所として描かれます。生き物同士が互いを糧としながら生きていく厳しさは、たとえば夜だけを孤独に飛ぶ鳥を描いた『よだかの星』など、賢治の他の童話にも形を変えて表れると言われます。
賢治自身、自然と深く関わる暮らしのなかで、多くの童話を書いたと言われます。そうした環境で育まれた自然観が、作品の随所ににじんでいると考えられます。ただし、作品の細部を作者の実生活とそのまま結びつけて断定することは慎むべきでしょう。
童話集『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』は、刊行当時こそ広くは読まれなかったとされます。しかし、のちに国語教科書などで親しまれるようになり、宮沢賢治を代表する作品のひとつとして定着していきました。動物を狩って命を軽んじる人間が、逆に食べられかける側に回る、という反転の構造は、教科書的な道徳とは違う筋道で、読者に生き物の命について立ち止まらせる力を持ち続けています。
大正から昭和初期にかけて、日本の文学はまだ「子ども向けのお話」と「大人のための文学」を截然と分けていませんでした。賢治の童話が、動物の命というシリアスな主題を、恐ろしくもどこかユーモラスな筆致で描けたのも、そうした時代の柔軟さと無縁ではなかったのかもしれません。
「大歓迎」を疑うとき
私たちの日常にも、「大歓迎」に似た言葉はいくつも転がっています。「今だけ無料」「あなただけ特別価格」「誰でも歓迎です」——差し出される好意や特典を前にしたとき、それを疑うことは、思いのほか難しいものです。むしろ「歓迎されている」と信じてしまったほうが、その場では心地よく、都合がよいのです。
厄介なのは、こうした言葉に潜む違和感が、たいてい一度にはやってこないことです。最初の条件は些細で納得しやすく、次第に求められるものが増えていきます。二人の紳士が扉を一枚ずつくぐるように、私たちも小さな違和感を一つずつ飲み込みながら、後戻りしにくい場所まで進んでしまうことがあります。契約書の細かな条項、次々と追加される「必要な手続き」、断りにくい雰囲気で重ねられる頼みごと。そのたびに私たちは、「ここまで来たのだから」「きっと相手にも理由があるのだろう」と、自分を納得させる理屈を探してしまいます。
たとえば、スマートフォンのアプリをひとつ使うだけでも、私たちは次々と現れる確認画面に、ほとんど中身を読まずに同意し続けています。
利用規約、位置情報の許可、通知の許可、次のアップデートでの新しい権限——「同意する」のボタンを押すたびに、私たちは扉を一枚くぐっているのに、それを意識することはほとんどありません。求められている範囲が少しずつ広がっていることに気づいたときには、もうそのサービスなしでは生活が回らなくなっている、ということも珍しくないでしょう。
『注文の多い料理店』の二人が滑稽に見えるのは、彼らの解釈があまりにも都合よく、そして最後まで疑いを手放さなかったからではありません。むしろ、疑いながらも、その疑いを自分で打ち消す理屈をいくつも用意してしまったからです。私たちは彼らを笑う前に、自分の身の回りにある「大歓迎」の言葉を、もう一度だけ疑ってみてもよいのかもしれません。
新古典として、今
『注文の多い料理店』を、単なる愉快などんでん返しの話として読むこともできます。けれども、そう読んで済ませてしまうと、この作品がほんとうに突きつけているものを見落としてしまうかもしれません。二人の紳士を騙したのは、山猫の悪知恵だけではありません。都合のよい言葉を、都合のよいままに受け取り続けた、彼ら自身の解釈でもありました。
宮沢賢治がこの短い童話に仕込んだのは、「注文」というたった一語の多義性です。それだけで、客ともてなす側の関係を、丸ごとひっくり返してみせる。刊行当時は広く読まれなかったというこの童話が、いまなお色褪せずに読み継がれているのは、この仕掛けのシンプルさと、その奥にある問いの重さが、時代を選ばないからでしょう。何度読み返しても、扉の文言を目にするたびに、私たちはまた同じように、都合のよい意味を当てはめてしまいそうになります。
扉に「大歓迎」と書かれているとき、それを疑わずにいられるかどうか。命を軽んじていないか、都合のよい理屈で違和感を押し殺していないか——そうした問いを静かに置いたまま、この物語は結末を迎えます。二人の顔に残った消えない痕跡のように、この作品もまた、一度読んだ読者の記憶に、簡単には消えない跡を残していきます。
次にどこかで「歓迎」の二文字を目にしたとき、ふとこの物語を思い出せたなら、それだけで、この短い童話を読み返した意味はあるはずです。『イーハトヴ童話』という総称のもとに集められた作品群のなかで、この一編が今なお真っ先に思い出される童話であり続けているのも、この仕掛けの強さゆえでしょう。扉の向こうに何があるのか、確かめる前に、まず自分の足元にある「注文」を、もう一度読み直してみたくなる——そんな読後感を残してくれる作品です。
本文の引用は、青空文庫版『注文の多い料理店』(底本:「注文の多い料理店」新潮文庫、新潮社、1990年5月25日発行・1997年5月10日17刷)に拠りました。
『注文の多い料理店』は青空文庫で全文を無料で読むことができます。ぜひ原文にあたってみてください。