やまいぬの文学評論場

青空文庫の書作を中心に批評していきます。

『注文の多い料理店』を、"注文"が反転する物語として読む

扉に貼られた「大歓迎」の文字を、そのまま信じてよいものだろうか。

歓迎されている、選ばれている——そう思い込んだ瞬間、人は次に何を求められても、疑うことをやめてしまう。空腹をかかえた二人の紳士が、山奥で見つけた一軒の洋館に迷い込んでいく。次々と現れる扉には、丁寧な言葉で細かな指示が書きつけられていて、彼らはそのたびに、もっともらしい理由を自分で考えては、素直に従っていく。愛想のよい言葉の裏に、本当は誰の都合が隠れているのか。それを確かめる前に、扉はもう静かに開いてしまっている。

この作品を、いま読む理由

宮沢賢治の『注文の多い料理店』は、じつにシンプルな仕掛けの上に成り立っている短編童話です。山奥で獲物にはぐれた二人の紳士が、一軒の西洋料理店にたどり着き、次々と現れる扉の指示に従いながら奥へ進んでいきます。「注文の多い料理店」というタイトルそのものが、この物語の最大の企みです。読者は当然、「客が注文の多い店だ」という意味で読み始めます。しかし物語が進むにつれて、この「注文」の主語が、いつのまにか入れ替わっていることに気づかされます。

本稿では、この主語の反転——誰が誰に対して「注文」しているのか——を軸に、『注文の多い料理店』を読み解いていきます。

扉に書かれたひとつひとつの文言は、額面どおりに読めば「もてなし」のことばです。けれども同じ文言を、店の側から読み直すと、まったく違う意味が浮かび上がってきます。二人の紳士がこの反転にどれだけ長く気づかずにいられたか、そして読者自身もまた、彼らと同じように文言を都合よく読んでしまってはいなかったか。この記事は、その仕掛けをたどり直す試みです。

作品の輪郭

いつ、誰が書いたか

『注文の多い料理店』は、1924年(大正13年)12月1日に発表されました。盛岡市杜陵出版部・東京光原社から刊行された童話集『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』の表題作です。「イーハトヴ」は、宮沢賢治が故郷・岩手をモデルに思い描いた理想郷を指す造語だと言われます。この童話集は、賢治が生前に刊行した数少ない著作のひとつで、当時は広くは読まれなかったとされますが、没後にその評価は大きく高まっていきました。

どんな話か

物語は、イギリスの兵隊のような格好をした二人の若い紳士が、山奥へ狩りにやってくる場面から始まります。しかし獲物は一匹も見つからず、案内の猟師ともはぐれ、連れていた犬まで急に倒れて死んでしまいます。途方に暮れて道を探すうち、二人は西洋造りの一軒の家にたどり着きます。玄関には「RESTAURANT 西洋料理店 WILDCAT HOUSE 山猫軒」という看板が出ていました。

看板には、英語と日本語がわざわざ並べて書かれています。「RESTAURANT」と「西洋料理店」、「WILDCAT HOUSE」と「山猫軒」。西洋への憧れと、山奥という土地の不釣り合いが、この二重表記の時点ですでに漂っています。

空腹をかかえた二人は喜んで中へ入り、廊下を進んでいきます。すると扉が次々と現れ、そのたびに何か指示が書きつけられています。水いろのペンキ塗りの扉があるかと思えば、黒塗りの扉もある——同じ廊下を進んでいるはずなのに、扉の意匠が変わるたびに、二人の期待もまた、少しずつ膨らんでいくようです。二人はその指示に、いぶかしみながらも従い続けていきます。この先、扉の奥で何が待っているのかは、本作の核心に関わるため、この輪郭紹介では触れずにおきます。

論点1:「注文」は誰のものか——タイトルに仕込まれた二重の意味

読者としてまず驚かされるのは、招かれたはずの二人の紳士が、実は注文をする側ではなく、注文をされる側だったという反転です。「注文の多い料理店」という題名を最初に目にしたとき、私たちはごく自然に、客が細かい注文をつける、あるいは客の要望に丁寧に応じる、そんな店を思い浮かべます。しかし物語を読み進めるうちに、この「注文」の主語は静かに入れ替わっていきます。

まず、店の扉に掲げられた言葉を順に見ていきます。最初の一枚には、こう書かれていました。

「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」

続く一枚には、さらに踏み込んだ歓迎の言葉が並びます。

「ことに肥ったお方や若いお方は、大歓迎いたします」

初読では、これはただの愛想のよい呼び込みに読めます。けれども、あとになってふり返れば、この「肥ったお方」という条件づけほど、恐ろしい伏線もありません。歓迎されているのは、二人の人格でも身分でもなく、単に肉づきのよい身体だったのです。

さらに踏み込むなら、二人が最初に山で漏らした言葉も、この「歓迎」の伏線として効いてきます。二人は鹿を撃ちたいと言いながら、「黄いろな横っ腹」を思い浮かべ、獲物の身体を品定めするような目で語っていました。狩る側だったはずの二人のまなざしが、そっくりそのまま、扉の向こうから自分たちへ向けられていました。「肥ったお方」ということばは、彼ら自身が獲物に向けていた視線の、そのままの照り返しだったとも読めます。

さらに奥へ進むと、扉にはこう記されています。

「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」

「注文はずいぶん多いでしょうがどうか一々こらえて下さい。」

このタイトルそのものを反復するかのような一文に出会っても、二人の紳士はまだ「注文の多い」を、客への手厚いサービスを表す言葉としてしか受け取りません。「こらえて下さい」ということばさえも、彼らには「対応に手間取るかもしれないが我慢してほしい」という、店側の詫びの言葉としか映らないのです。

この時点ではまだ「注文」は、レストランが客に提示するルール程度のものとして読める仕掛けになっています。ところが奥へ進むにつれて、その「注文」の数はどんどん増えていきます。鉄砲と弾丸を置け、帽子と外套と靴を取れ、金物類を外せ、クリームを塗れ、香水をかけろ——一つひとつは些細な指示でも、積み重なるほどに不穏さが増していきます。

そして物語の終盤、ようやく二人はこの言葉の正体に気づきます。

「沢山の注文というのは、向うがこっちへ注文してるんだよ。」

「注文」という同じ一語が、客から店への要望ではなく、店から客への要求だったと判明する瞬間です。二人はさらに、その意味をこう言い当てます。

「西洋料理店というのは、ぼくの考えるところでは、西洋料理を、来た人にたべさせるのではなくて、来た人を西洋料理にして、食べてやる家とこういうことなんだ。」

招かれる客のつもりでいた二人は、実のところ、上質な食材として丁重に扱われていたにすぎませんでした。これはある意味で皮肉な「歓迎」のされ方です。肥っていることを歓迎され、髪を整えることを求められ、肌にクリームを塗りこまれ、香水をかけられ、塩をもみ込まれる。一つひとつの指示は、客をもてなす作法ではなく、食材を調理する手順そのものだったのです。

この仕掛けの巧妙さは、宮沢賢治が「注文」という一語の多義性だけで、読者の解釈をまるごと引っくり返してしまう点にあります。私たち読者も、扉の文言を読むあいだ、二人の紳士とほとんど同じ速度で、同じように好意的な意味を当てはめていたはずです。物語のタイトルに、すでに答えは書いてあった——それに気づくのは、たいてい一度読み終えたあとになります。

だからこそ、この作品は再読に値します。一度結末を知ったうえで扉の言葉を読み直すと、最初は気づかなかった不穏さが、随所に姿を現してきます。「大歓迎」も「注文の多い」も、二度目に読めば、もう無邪気には受け取れません。仕掛けを知ってなお読み返したくなる、という点にこそ、この短い童話の底力があります。

論点2:段階的にエスカレートする指示と、都合のいい解釈

読者としてまず引っかかるのは、最初のうちは至極まっとうに見えた指示が、扉を一枚くぐるごとに、少しずつ常軌を逸していく点です。それでも二人の紳士がその変化を最後まで受け入れ続けてしまったのは、権威への憧れだけでなく、単純な空腹のためでもあったのではないでしょうか。

そもそも二人は、山に入る前から、獲物を「金額」でしか捉えていませんでした。

獲物が見つからなければ「山鳥を拾円も買って帰ればいい」と言い、犬が死んだときには二千円台の「損害」を口にします。二人にとって生き物の値打ちは、はじめから売買の対象として測られていたのです。だとすれば、扉の向こうの指示にどれほど法外な要求が並んでいても、彼らはそれを「対価を払えば受け入れられるサービス」の一種として処理してしまいます。それは、彼らにとってごく自然な反応だったのかもしれません。

すでに廊下に入ってすぐ、二人はこの家の異様な戸の多さに気づいてはいました。

「どうも変な家だ。どうしてこんなにたくさん戸があるのだろう。」

けれども、その違和感もすぐに片づけられてしまいます。

「これはロシア式だ。寒いとこや山の中はみんなこうさ。」

まだ何も要求されていない段階から、二人はすでに、疑問を検証するのではなく、疑問を解消するための物語を自分で作り始めていたのです。

最初の指示は、レストランのマナーとして十分に納得できるものでした。

「鉄砲と弾丸をここへ置いてください。」

これを見た紳士の一人は、「鉄砲を持ってものを食うという法はない」と、ごく常識的に受け止めます。ところが、この程度の解釈はここまでです。次の扉で帽子と外套と靴を取るよう求められたときには、すでに理由づけの質が変わっています。

「たしかによっぽどえらいひとなんだ。奥に来ているのは」

「決まりだから」という納得は、いつのまにか「よほど偉い人が来ているのだろう」という、自分たちに都合のよい推測にすり替わっています。クリームを塗るよう求められる段になると、この推測はさらに大胆になっていきます。

「どうも奥には、よほどえらいひとがきている。こんなとこで、案外ぼくらは、貴族とちかづきになるかも知れないよ。」

指示が不自然になるほど、彼らの解釈は反比例するように華やかになっていく——疑いを打ち消すための理屈が、疑うべき材料そのものに比例して増強されていく様子だと言えます。香水だと思って振りかけたものが酢のような匂いだったときも、「下女が風邪でも引いてまちがえて入れたんだ」と、あくまで些細な手違いとして片づけてしまいます。

ここで見逃せないのが、彼らを立ち止まらせなかったもう一つの力——空腹です。

早く何か暖いものでもたべて、元気をつけて置かないと、もう途方もないことになってしまうと、二人とも思ったのでした。

クリームを顔や手足に塗るよう命じられた場面では、その空腹がもっとも露骨な形で表れます。

それでもまだ残っていましたから、それは二人ともめいめいこっそり顔へ塗るふりをしながら喰べました。

顔に塗るべきクリームを、こっそり口に運んでしまう二人の姿は、滑稽であると同時に象徴的です。

判断力を鈍らせているのは、権威への憧れだけでなく、いま目の前にある空腹という、もっと切実な欲求でもあったのです。

一度この廊下を進みはじめた以上、後戻りして飢えたまま山を彷徨うよりは、次の扉を開けたほうがましだ——そう思わせるだけの空腹が、二人の判断力をじりじりと侵食していきます。おかしいと感じながらも、ここまで進んだのだから、と歩みを止められない心理は、都合のよい解釈を重ねるほど、後戻りする勇気を失っていく仕組みをよく表しています。

けれども、この解釈の運動にも限界はあります。塩をもみ込むようにという最後の指示に至って、二人はようやく「どうもおかしいぜ」「ぼくもおかしいとおもう」と、はじめて互いの不安を言葉にします。都合のよい理屈を積み重ねられるだけ積み重ねたその先で、ついに理屈が追いつかなくなる瞬間が訪れるのです。空腹と権威への憧れが二人を押し進めてきた廊下の果てに、何が待っていたのか——それは、次の論点でたどることにします。

論点3:気づいたときにはもう遅い——最後の反転と、それでも救われる結末

振り返ってみれば、この物語は冒頭から、二人が自然のなかで異物であったことを示していました。「鳥も獣も一疋も居やがらん」とぼやく二人に対して、山そのものが応答するように、犬が突然倒れ、案内の猟師さえ姿を消してしまいます。獲物を狩るはずだった山で、狩る側と狩られる側の力関係が、すでに静かに逆転しはじめていたのです。西洋料理店での顛末は、この予兆が最終的な形をとったものにすぎません。

食べさせてもらう客のつもりでいた二人は、気づいたときにはすでに、食べられる食材の側に回っていました。塩を体にもみ込めという指示に「どうもおかしいぜ」と顔を見合わせた二人は、ついに事の次第を悟ります。恐怖はすぐに、言葉を奪うほどの震えとなって二人を襲います。

「その、ぼ、ぼくらが、……うわあ。」がたがたがたがたふるえだして、もうものが言えませんでした。

逃げようにも、後ろの戸はもう動きません。

「遁げ……。」がたがたしながら一人の紳士はうしろの戸を押そうとしましたが、どうです、戸はもう一分も動きませんでした。

奥の扉には鍵穴からのぞく二つの青い目玉、そして「さあさあおなかにおはいりください」という言葉——ここに至って、二人はただ泣くことしかできなくなります。この絶望的な状況を破ったのは、思いがけない救い手でした。

そのときうしろからいきなり、「わん、わん、ぐゎあ。」という声がして、あの白熊のような犬が二疋、扉をつきやぶって室の中に飛び込んできました。

物語の冒頭、この二疋の犬は「めまいを起こして、しばらく吠って、それから泡を吐いて死んでしまいました」と語られていた、あの犬たちです。死んだはずの犬が、なぜここで生きて戻ってくるのか、物語ははっきりと説明しません。けれども、この不思議な符合そのものが、この作品の急所を突いています。冒頭で犬が倒れたとき、二人が漏らした言葉を思い出してみます。

「じつにぼくは、二千四百円の損害だ」と一人の紳士が、その犬の眼ぶたを、ちょっとかえしてみて言いました。

「ぼくは二千八百円の損害だ。」と、もひとりが、くやしそうに、あたまをまげて言いました。

命を金額に換算し、悲しむよりも先に「損害」を数えた二人が、まさにその犬たちに命を救われる——この配置は、偶然にしてはできすぎています。軽んじた命が、巡り巡って自分たちを救いにくる構図には、宮沢賢治がくり返し作品に込めた、生き物の命への敬意という主題が、静かに、しかし確かに響いているように思われます。

助け出された二人は、猟師の団子を食べ、山鳥を買って東京へ帰っていきます。物語はここで、二人を罰することも、諭すこともしません。ただ最後の一文が、静かに、消えない代償を告げます。

しかし、さっき一ぺん紙くずのようになった二人の顔だけは、東京に帰っても、お湯にはいっても、もうもとのとおりになおりませんでした。

命を「損害額」として値踏みしていた顔つきは、二度と元には戻りません。

宮沢賢治はこの結末で、二人を殺しも、改心させもしませんでした。ただ、動物の命を軽んじた報いとして、消えない痕跡だけを残したのです。教訓を声高に語るかわりに、二人の顔にその答えを刻みつける——この静かな筆致にこそ、命の重さを軽んじる者への、もっとも手厳しい返答が込められているのかもしれません。タイトルに仕込まれた「注文」の反転が、誰が誰の都合で動いていたかを暴いたように、この結末もまた、誰の命がより軽く扱われていたのかを、静かに問い返しているのです。

もし賢治が、二人をそのまま食べられるにまかせていたら、この物語は単純な因果応報の教訓話で終わっていたはずです。

けれども賢治は、犬という思いがけない存在を差し向けることで、二人に生き延びる機会を与えました。罰でも赦しでもない、この宙づりの結末こそが、読者の側に判断を委ねる余白を残しているのだと思います。

時代を背負う言葉

『注文の多い料理店』が刊行された1924年(大正13年)前後は、日本の児童文学が大きく動いていた時期にあたります。1918年に鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊して以降、子どもに大人の説教臭い教訓譚を与えるのではなく、芸術性の高い創作童話を届けようとする運動が広がっていました。宮沢賢治の童話も、こうした大正期の児童文学の潮流と、時代の空気をともにしていたと考えられます。

ただし、賢治の童話には、同時代の童心主義的な作品とは一線を画す独特の手触りがあります。それは、自然や動植物を、無条件にやさしい存在としては描かない点です。『注文の多い料理店』の山猫たちは、二人の紳士を平然と食べようとしますし、他の作品でも、生き物が生き物を糧として生きていく厳しさが、繰り返し描かれていると言われます。動物や植物の命を軽々しく扱う者への視線の鋭さは、賢治の童話に一貫して流れる主題のひとつだとされます。

「イーハトヴ」ということばは、この童話集だけでなく、賢治の他の作品にも繰り返し登場する、いわば賢治文学全体を貫くキーワードのひとつです。そこは、現実の岩手でありながら、同時にどこにもない理想の郷でもあるという、二重の性格を持つ場所として描かれます。生き物同士が互いを糧としながら生きていく厳しさは、たとえば夜だけを孤独に飛ぶ鳥を描いた『よだかの星』など、賢治の他の童話にも形を変えて表れると言われます。

賢治自身、自然と深く関わる暮らしのなかで、多くの童話を書いたと言われます。そうした環境で育まれた自然観が、作品の随所ににじんでいると考えられます。ただし、作品の細部を作者の実生活とそのまま結びつけて断定することは慎むべきでしょう。

童話集『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』は、刊行当時こそ広くは読まれなかったとされます。しかし、のちに国語教科書などで親しまれるようになり、宮沢賢治を代表する作品のひとつとして定着していきました。動物を狩って命を軽んじる人間が、逆に食べられかける側に回る、という反転の構造は、教科書的な道徳とは違う筋道で、読者に生き物の命について立ち止まらせる力を持ち続けています。

大正から昭和初期にかけて、日本の文学はまだ「子ども向けのお話」と「大人のための文学」を截然と分けていませんでした。賢治の童話が、動物の命というシリアスな主題を、恐ろしくもどこかユーモラスな筆致で描けたのも、そうした時代の柔軟さと無縁ではなかったのかもしれません。

「大歓迎」を疑うとき

私たちの日常にも、「大歓迎」に似た言葉はいくつも転がっています。「今だけ無料」「あなただけ特別価格」「誰でも歓迎です」——差し出される好意や特典を前にしたとき、それを疑うことは、思いのほか難しいものです。むしろ「歓迎されている」と信じてしまったほうが、その場では心地よく、都合がよいのです。

厄介なのは、こうした言葉に潜む違和感が、たいてい一度にはやってこないことです。最初の条件は些細で納得しやすく、次第に求められるものが増えていきます。二人の紳士が扉を一枚ずつくぐるように、私たちも小さな違和感を一つずつ飲み込みながら、後戻りしにくい場所まで進んでしまうことがあります。契約書の細かな条項、次々と追加される「必要な手続き」、断りにくい雰囲気で重ねられる頼みごと。そのたびに私たちは、「ここまで来たのだから」「きっと相手にも理由があるのだろう」と、自分を納得させる理屈を探してしまいます。

たとえば、スマートフォンのアプリをひとつ使うだけでも、私たちは次々と現れる確認画面に、ほとんど中身を読まずに同意し続けています。

利用規約、位置情報の許可、通知の許可、次のアップデートでの新しい権限——「同意する」のボタンを押すたびに、私たちは扉を一枚くぐっているのに、それを意識することはほとんどありません。求められている範囲が少しずつ広がっていることに気づいたときには、もうそのサービスなしでは生活が回らなくなっている、ということも珍しくないでしょう。

『注文の多い料理店』の二人が滑稽に見えるのは、彼らの解釈があまりにも都合よく、そして最後まで疑いを手放さなかったからではありません。むしろ、疑いながらも、その疑いを自分で打ち消す理屈をいくつも用意してしまったからです。私たちは彼らを笑う前に、自分の身の回りにある「大歓迎」の言葉を、もう一度だけ疑ってみてもよいのかもしれません。

新古典として、今

『注文の多い料理店』を、単なる愉快などんでん返しの話として読むこともできます。けれども、そう読んで済ませてしまうと、この作品がほんとうに突きつけているものを見落としてしまうかもしれません。二人の紳士を騙したのは、山猫の悪知恵だけではありません。都合のよい言葉を、都合のよいままに受け取り続けた、彼ら自身の解釈でもありました。

宮沢賢治がこの短い童話に仕込んだのは、「注文」というたった一語の多義性です。それだけで、客ともてなす側の関係を、丸ごとひっくり返してみせる。刊行当時は広く読まれなかったというこの童話が、いまなお色褪せずに読み継がれているのは、この仕掛けのシンプルさと、その奥にある問いの重さが、時代を選ばないからでしょう。何度読み返しても、扉の文言を目にするたびに、私たちはまた同じように、都合のよい意味を当てはめてしまいそうになります。

扉に「大歓迎」と書かれているとき、それを疑わずにいられるかどうか。命を軽んじていないか、都合のよい理屈で違和感を押し殺していないか——そうした問いを静かに置いたまま、この物語は結末を迎えます。二人の顔に残った消えない痕跡のように、この作品もまた、一度読んだ読者の記憶に、簡単には消えない跡を残していきます。

次にどこかで「歓迎」の二文字を目にしたとき、ふとこの物語を思い出せたなら、それだけで、この短い童話を読み返した意味はあるはずです。『イーハトヴ童話』という総称のもとに集められた作品群のなかで、この一編が今なお真っ先に思い出される童話であり続けているのも、この仕掛けの強さゆえでしょう。扉の向こうに何があるのか、確かめる前に、まず自分の足元にある「注文」を、もう一度読み直してみたくなる——そんな読後感を残してくれる作品です。


本文の引用は、青空文庫版『注文の多い料理店』(底本:「注文の多い料理店」新潮文庫、新潮社、1990年5月25日発行・1997年5月10日17刷)に拠りました。

『注文の多い料理店』は青空文庫で全文を無料で読むことができます。ぜひ原文にあたってみてください。

宮沢賢治『注文の多い料理店』(青空文庫)

なぜ"自分"は、百年間の罪に気づかなかったのか——『夢十夜』を読む

既読はついています。それでも、何日たっても言葉は返ってきません。そういう夜、人はいつまで待てばいいのか分からなくなります。ちゃんと待っていれば、いつか届くのでしょうか。それとも、もう届かないと認めてしまった方が楽なのでしょうか。

待つことと、待つのをやめることのあいだで、人はいつも判断を誤ります。しかもその誤りに気づくのは、たいてい遅れてからです。百年前に見られた夢のなかにも、同じ迷いを抱えたまま立ち尽くす人がいます。

この作品を、いま読む理由

夏目漱石の『夢十夜』は、十の独立した夢が並ぶだけの奇妙な連作に見えます。

死んでいく女、悟れない侍、消えていく老人、豚に追われる呑気な男——脈絡のなさこそがこの作品の身上だとされることも少なくありません。

しかし十篇を続けて読むと、ほとんどの夜が同じ骨格を抱えていることに気づきます。それは「待つ」という時間の感覚です。何かが起こるのを待つ人、何かに気づかないまま時間をやり過ごしてしまう人、待ちきれずに動いてしまう人。夢という形を借りて、漱石は繰り返し、時間に対して人がどう構えるかを試しているように見えます。

なかでも際立つのが「百年」という数字です。

第一夜では、死んでゆく女が、百年経てば必ず逢いに来るから、それまで墓の傍で待っていてほしいと言い残します。第三夜では、背負った盲目の子供が「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」と告げます。同じ長さの時間が、一方では希望の尺度になり、もう一方では罪の重さを量る尺度になっているのです。

この記事では、『夢十夜』を単なる悪夢の見本市としてではなく、待つこと・気づくこと・待てずに動いてしまうことをめぐる十通りの実験として読み直してみたいと思います。

作品の輪郭

いつ、誰が書いたか

『夢十夜』の作者は夏目漱石です。一般に、1908年(明治41年)に新聞連載されたとされ、前年に発表された長編『虞美人草』と、同年秋に始まる『三四郎』のあいだに挟まれた時期にあたります。社会と個人を描く長編小説の合間に、ごく短い夢の断片を十篇並べるという、漱石の仕事の中でもかなり異色の試みです。

本文の底本は「夏目漱石全集10巻」(ちくま文庫、筑摩書房)で、その親本は「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」(筑摩書房)です。

どんな話か

『夢十夜』は、「こんな夢を見た」という一文から始まる短い夢を十篇連ねた連作です。舞台も時代もばらばらで、死を目前にした女性が現れる回もあれば、悟りを迫られる侍が出てくる回、明治の東京を舞台にした回、行き先の分からない船に乗り込む回もあります。共通しているのは「自分」という一人称の語り手だけです。

もっとも、その語り方も十篇でまったく同じではありません。「こんな夢を見た」とはっきり夢だと断ってから始まる回もあれば、そうした前置きなしに、いきなり夢の中へ放り出される回もあります。さらに第九夜は夢の中で母から聞いた話として、第十夜は友人の健さんから伝え聞いた話として語られ、語り手自身が直接見た夢ではなくなっていきます。『夢十夜』という一つの題のもとに、実は体験の遠近法がかなり異なる十篇が並んでいるのです。

しかも、この「自分」がどこまで信頼できる語り手なのかも、夜によって揺れています。第三夜の"自分"は、最後の一言を聞くまで自分の罪に気づきません。第九夜の"自分"は、母から伝え聞いた話をそのまま夢の形で受け取っているだけで、真偽を確かめる術を持っていません。語り手が何を知っていて、何を知らないのか——それ自体が、十篇を読み解く鍵の一つになります。

十篇に共通する"自分"が、同一人物なのか、それともその都度違う夢見手なのかは、本文のどこにも明記されていません。読者は、ゆるやかな符牒だけを頼りに、十の夢を一つの体験として読むよう促されているのです。

論点1:「百年」という約束と、気づかぬ罪——第一夜と第三夜

読み手としてまず引っかかるのは、第一夜と第三夜が同じ「百年」という物差しを、正反対の重さで使っていることです。

第一夜では、百年は待てば必ず報われる約束の単位として現れます。第三夜では、百年は気づかないまま重ねてしまった罪の単位として現れます。

第一夜で死んでゆく女は、こう言い残します。

「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。

「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」

自分は墓の傍で、赤い日が昇っては沈むのを一つ二つと数えながら待ち続けます。

しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。

数えるという行為は、本来なら時間を確実なものにするはずです。ところがここでは、数えれば数えるほど、百年という約束のほうが疑わしくなっていきます。そして疑いを持て余したまさにそのとき、墓から伸びた茎に白い百合が咲き、花に接吻した拍子に、ようやく気がつくのです。

「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。

百年は、指を折って辿り着く時間ではなく、疑いを手放した瞬間にすでに満ちていた時間として描かれています。

見逃せないのは、気づきが訪れる直前に、"自分"が数えることをやめて、身体でその場に触れている点です。伸びてきた茎の丈は、ちょうど自分の胸の高さで止まり、白い花弁には冷たい露が滴っています。首を伸ばして接吻するという、ごく小さな身体の動きが、百年という途方もない時間の終わりと重なっています。待つことの終わりは、数え続けた先にではなく、数えるのをやめて何かに触れた瞬間に訪れる、と読むこともできそうです。

第三夜は、この構図をそっくり裏返します。背負っているのは「六つになる子供」だと紹介されるのですが、

声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで大人である。しかも対等だ。

と、すでに最初の場面で小さな違和感が仕込まれています。それでも自分は気づかないまま歩き続け、何でもないような口調で、こう告げられます。

「文化五年辰年だろう」

そして、畳みかけるようにこう続きます。

「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」

第一夜の百年が、赤い日の出没を目で数えるだけの、いわば体感の時間だったのに対し、第三夜の百年には「文化五年」という元号まで添えられています。感覚では測れないはずの百年に、公的な暦の年号が刺さることで、この罪は夢のあいまいさから逃れて、ほとんど史実のような重みを帯びます。

おれは人殺であったんだなと始めて気がついた途端に、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。

六つの子供の重さが、罪を悟った瞬間に石地蔵の重さへと変わります。石地蔵はもともと、この国で子供の魂や墓を守るとされてきた石仏です。その像に姿を変えて背中にのしかかるというのは、単なる比喩以上に、背負っていたものの正体を言い当てる仕掛けのように読めます。

第一夜の百合が「気づけば満ちていた時間」の象徴だとすれば、第三夜の石地蔵は「気づいた瞬間に取り返しがつかなくなる時間」の象徴です。どちらも「始めて気がついた」という同じ言い回しで結ばれているのは、偶然ではないはずです。漱石は、待望と忘却という正反対の感情に、まったく同じ発見の構文を与えているのです。

この構造は、のちに漱石が『こころ』で繰り返す主題——自分では気づかないまま人を傷つけ、何年も経ってからその重さに不意打ちされる——の、もっとも短く鋭い予告編のようにも読めます。日付や既読表示で時間を管理している気になっている現代の読者にとって、百年という単位で不意打ちされる第三夜の自分の当惑は、決して他人事ではないはずです。

論点2:悟れない時間、届かない祈り——第二夜と第九夜

男という一人の人物が、時間とどう向き合うかという軸で見ると、第二夜と第九夜は互いを裏返した関係にあります。第二夜は、時間に追い立てられる本人の内側を描き、第九夜は、時間に取り残された家族の外側を描いています。

第二夜の"自分"は侍で、突如現れた和尚に迫られます。

お前は侍である。侍なら悟れぬはずはなかろうと和尚が云った。……人間の屑じゃと言った。

挑発に苛立った"自分"は、自分自身に向けて誓いを立てます。

隣の広間の床に据えてある置時計が次の刻を打つまでには、きっと悟って見せる。

もし悟れなければ自刃する。

期限を自分で切り、悟りという内面の出来事を、時計の音という外側の出来事に結びつけてしまったのです。当然、悟りは意志の力だけで呼び出せるものではありません。

自分はいきなり拳骨を固めて自分の頭をいやと云うほど擲った。……涙がほろほろ出る。

奥歯を噛み、拳で自分の頭を殴りつけても、無はちっとも現れません。物語は、時計が二つ目を打つ音とともに、悟りにも死にも至らないまま宙づりにされて終わります。

はっと思った。右の手をすぐ短刀にかけた。時計が二つ目をチーンと打った。

ここで流れているのは、本人にしか感じられない、締切りに追われる時間です。しかもその時間は、坐ったまま動かずに耐える時間でもあります。

第九夜は、まったく逆の場所から時間を描きます。夫を亡くした母は、毎晩、子供を拝殿の欄干に括りつけて、境内を歩き通します。

もう一つ、あまり注目されない共通点があります。

第二夜の侍は「朱鞘の短刀」を布団の下から取り出し、第九夜の母もまた、夜ごとの外出前に「鮫鞘の短刀」を帯に差します。鞘の色は違えど、どちらの夜も、時間に耐える人物の腰元には同じ形の刃が控えているのです。侍にとってそれは自分に向けるかもしれない刃であり、母にとっては夜道を独りで歩くための備えです。同じ小道具が、内へ向かう覚悟と、外へ向かう用心の両方に使われています。漱石が細部にまで気を配っていたことの、小さいけれど確かな証拠だと思います。

それから段々を下りて来て二十間の敷石を往ったり来たり御百度を踏む。

母の考えでは、夫が侍であるから、弓矢の神の八幡へ、こうやって是非ない願をかけたら、よもや聴かれぬ道理はなかろうと一図に思いつめている。

第二夜の"自分"が静止したまま耐える時間だとすれば、第九夜の母は、歩き続けることでしか耐えられない時間を生きています。しかも彼女が祈っているのは、もう取り返しのつかない相手の無事です。

こう云う風に、幾晩となく母が気を揉んで、夜の目も寝ずに心配していた父は、とくの昔に浪士のために殺されていたのである。

第二夜の"自分"は、間に合うかどうか分からない締切りに向けて全力で焦っています。第九夜の母は、すでに間に合わなくなった相手のために、それと知らずに全力で祈り続けています。前者は本人だけが感じる時間で、後者は本人がいなくなった後もなお動き続ける、残された者の時間です。拳を固めても、敷石を何度往復しても、時間そのものは動かせません。焦って進む時間と、気づかれないまま進む時間——漱石は、どちらも同じように人を裏切ることを示しているように見えます。

もっとも、両夜が読者に与える距離は同じではありません。第九夜では、母が知らない事実を読者だけがそっと知らされます。第二夜では、読者もまた"自分"と同じ場所に置き去りにされ、時計が二つ鳴った先に何があったのかを最後まで知らされません。宙づりにされるのが登場人物だけなのか、読者まで巻き込まれるのか——漱石は夜によって、その距離の取り方まで変えているのです。

論点3:待てなかった一瞬——第七夜の後悔と第四夜の対比

待つか、動くか——この二択に正解はないというのが、ここでのいちばん鋭い着眼点だと思います。第四夜は待つ方を、第七夜は動く方を選んだ夢として、きれいに対になっています。

第七夜の"自分"は、行き先の分からない船に耐えられなくなり、ある晩、思い切って海へ飛び込みます。

とうとう死ぬ事に決心した。それである晩、あたりに人のいない時分、思い切って海の中へ飛び込んだ。ところが――自分の足が甲板を離れて、船と縁が切れたその刹那に、急に命が惜しくなった。心の底からよせばよかったと思った。けれども、もう遅い。

後悔は、決断した直後ではなく、体が船から完全に離れたその一瞬に襲ってきます。しかも同じ船の上には、行き先も分からないまま、それでも今この時間を楽しんでいた者たちがいました。

或時サローンに這入ったら派手な衣裳を着た若い女が向うむきになって、洋琴を弾いていた。その傍に背の高い立派な男が立って、唱歌を唄っている。……船に乗っている事さえ忘れているようであった。

同じ船に、同じだけ先の見えない時間を過ごしながら、それでも没頭できるものを見つけていた二人がいる。"自分"がその可能性に気づくのは、飛び込んでしまったあとです。

……やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事ができずに、無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。

ここが第七夜のもっとも残酷なところです。正しい答えに辿り着く悟りそのものは訪れるのに、それを使う時間だけがもう残っていません。結果論だと分かっていても、後悔せずにはいられません。むしろ、後悔が生まれるということ自体が、そこに本気で賭けていたことの証だとも言えます。何の未練も残らない選択は、最初から選択と呼べるほどのものではなかったのかもしれません。

もっとも、後悔がすべてを教えてくれるわけではありません。船上の音楽も星空も、飛び込む前から変わらずそこにあったはずです。それでも"自分"の目には、絶望している間、まるで映っていませんでした。後悔が証明するのは賭けの大きさだけでなく、追い詰められている最中の人間には、すぐ隣にあるものすら見えなくなるという、もっと単純な事実なのかもしれません。

一方の第四夜は、待つ方を選んだ末に何が起きるかを見せてくれます。爺さんは手拭いが蛇になると言い残し、河の中へまっすぐ歩いて消えていきます。

もう一つ気づくのは、行き先を尋ねられたときの答え方です。

第四夜の爺さんは、家がどこかと聞かれて「臍の奥だよ」と言い、どこへ行くのかと聞かれて「あっちへ行くよ」とだけ答えます。第九夜では、父の行方を聞かれた三つの子供が、覚えた通り「あっち」とだけ答えて笑います。二人とも、行き先を指させないまま、それでも迷いなく「あっち」と言い切っています。夢の中で人がどこかへ消えるとき、行き先はいつも具体的な地名ではなく、この漠然とした一語で片づけられてしまうのです。

自分は爺さんが向岸へ上がった時に、蛇を見せるだろうと思って、蘆の鳴る所に立って、たった一人いつまでも待っていた。けれども爺さんは、とうとう上がって来なかった。

待つことを選んだ"自分"には、後悔すら訪れません。ただ、いつまでも宙ぶらりんのまま取り残されるだけです。第七夜が一瞬で刺すように痛むのに対し、第四夜は痛みの輪郭すら結ばれないまま終わります。動けば取り返しのつかない後悔が来ます。待てば、後悔にすらたどり着けない徒労が残ります。漱石は、どちらの道にも同じだけの逃げ場のなさを用意しているように見えます。

時代を背負う言葉

『夢十夜』が新聞連載を通じて発表されたとされるのは、1908年(明治41年)のことです。日露戦争の終結からすでに数年が経ち、勝利の高揚がひとわたり収まったこの時期、急いだ近代化の反動のような不安が社会に広がっていたと言われます。漱石自身も、前年に大学の教職を離れ、朝日新聞専属の作家として『虞美人草』を送り出したばかりだったとされます。長編小説で社会と個人を描く仕事の合間に、ごく短い夢の断片を十篇差し挟んだ『夢十夜』は、その意味で漱石にとっても一種の実験だったと考えられます。

1867年(慶応3年)生まれとされる漱石にとって、1908年は40代に入って間もない時期にあたります。同時代に主流だった自然主義の作家たちが、身辺の事実をありのままに描くことを重視していたのに対し、漱石はこの時期、夢という非写実的な形式にあえて踏み込んでいます。事実をそのまま写すのではなく、事実には現れない時間の狂いを描くための選択だったと見ることもできるでしょう。

その時代の空気がもっとも色濃く出ているのが、第六夜です。

護国寺の山門で仁王を刻む運慶を、車夫や見物人が取り囲んで下馬評をしている場面から夜は始まります。見ている者は、みんな自分と同じく、明治の人間であると語られ、鎌倉時代の仏師がなぜか今も生きて彫り続けているという設定そのものが、すでに時代のねじれを示しています。見物人の一人はこう言い切ります。

なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない。

彫刻とは、木に埋まっているものを掘り出すだけの作業だという理屈です。

感心した自分も見よう見まねで薪から仁王を彫ろうとしますが、どの木にも仁王は見つかりません。

ついに明治の木にはとうてい仁王は埋っていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。

木の中にあらかじめ埋まっているものしか掘り出せないのなら、明治の木に仁王が埋っていないという結論は、素材そのものが変わってしまったという診断になります。急速な近代化が、何を積み上げ、何を失わせたのか——第六夜は、それを説教くさく語る代わりに、彫っても彫っても何も出てこないという一つの動作だけで示しています。運慶が今も生きているのは、彼を宿せるだけの時間がもう明治には残っていないから、という逆説めいた読み方すら可能になります。

既読がつくまでの、百年

既読はついているのに、返事だけが来ない。そのわずかな空白を、私たちはたいてい何かで埋めようとします。相手の忙しさを想像するのではなく、自分への不満や、関係の終わりを想像してしまいます。第一夜の"自分"が、赤い日を何度も数えたあとに「女に欺されたのではなかろうか」と思い出したのと、実はそう遠くない距離にあります。

既読がつく前は、何度も画面をひらいて確認する自分がいます。通知が来ないという状態そのものが、いつのまにか「悪い知らせ」に近いものとして感じられてしまいます。既読機能もプッシュ通知も、本来はただの技術的な仕組みにすぎないのに、私たちはそこに相手の気持ちを読み取ろうとしてしまいます。既読の有無や、返信までの時間の長さに、意味を見出さずにはいられません。これもまた、赤い日の出没を数えては疑いを深めていった"自分"の姿と、地続きのように思えます。

もっとも根本的な違いは、"自分"は最後まで墓の傍を離れなかったという一点です。もし途中で疑いに負けて墓を掘り返していたら、百合が咲くところを見ることはなかったはずです。私たちは、既読のついたメッセージ画面を前に、"自分"よりずっと簡単に席を立ってしまいます。もう一度、送ってみます。皮肉のひとつも、送ってしまいます。既読をつけたまま、黙り込みます。相手の沈黙に、自分の沈黙で応じてしまいます。

それは第七夜の"自分"が海に飛び込んだ判断と、案外近い場所にあります。行き先の分からない船に耐えられなかったように、私たちも、返事が来るかどうか分からない待ち時間に耐えられません。動けば楽になれる気がします。実際には、動いた瞬間に、たいてい何かを引き返せなくしてしまいます。

だからといって、ここから「とにかく待ちましょう」という話にはしたくありません。

第一夜の"自分"だって、最後まで疑いを完全には手放せませんでした。ただ、疑いを抱えたまま、それでも動かずにいられた、というだけです。既読の付いた画面を前に、確かめもせず一歩を踏み出してしまう自分を、私たちは笑えるでしょうか。それとも、もう何度も、同じように動いてしまった後なのでしょうか。

新古典として、今

『夢十夜』の十篇を貫くのは、時間に対する不器用さです。信じて待てば、いつか満ちる百年がある一方で、気づかないまま重ねてしまう百年もあります。悟ろうと焦る時間があり、届かないと知らずに祈り続ける時間があります。待てずに動いて即座に後悔する一瞬があり、動かずに待ち続けても何も返ってこない徒労があります。

どちらの側に立っても、時間は思い通りにならないという一点で、十篇はゆるやかに繋がっています。

漱石がこの連作にわざわざ「夢」という形を選んだのは、目が覚めている間は気づけない時間の狂いを描くためだったのかもしれません。夢の中でだけ、百年は一瞬で満ち、罪は百年経ってから浮かび上がります。目覚めている私たちも、実はそれと同じ速度のずれの中を生きているのに、ふだんはそれに気づかずにいられるだけなのでしょう。

既読の付いた画面の前で数秒を待てずに動いてしまうのも、御百度を踏み続ける母の祈りが届かないのも、規模こそ違え同じ不器用さの表れです。百年以上前に書かれたこの十の夢が、通知や既読表示に囲まれた今の生活にまで届いてくるのは、私たちがまだ、時間の扱い方をそれほど学べていないからなのだと思います。

次に何かを待つ夜が訪れたとき、自分が墓の傍でまだ数えている"自分"に近いのか、もう疑いに負けて動き出した"自分"に近いのか、たぶん本人にも分かりません。ただ、この十篇を読んだあとでは、気づくことの遅れそのものに、以前より敏感になっているはずです。

一度読んだだけでは、十篇のどれもただの奇妙な夢で終わります。けれども読み返すと、最初の夜に覚えた小さな違和感の正体が、後の夜になってようやく分かるということが起こります。これもまた、気づくのが遅れてやってくる時間の、一つの形なのでしょう。


本文の引用は、青空文庫版『夢十夜』(底本:「夏目漱石全集10巻」ちくま文庫、筑摩書房)に拠りました。

『夢十夜』は青空文庫で全文を無料で読むことができます。ぜひ原文にあたってみてください。

夏目漱石『夢十夜』(青空文庫)

『蜜柑』を、まなざしの逆転の物語として読む

見た目や振る舞いだけで、誰かに小さな判決を下してしまったことはないでしょうか?

理由は説明できなくても、なぜかその人が視界に入るだけで苛立つ、という経験が。多くの場合、その判決は誰にも気づかれないまま、自分の中だけで確定して終わります。ある冬の夕暮れ、二等客車に乗り合わせた一人の男が、みすぼらしい身なりの少女に、まさにそうした苛立ちを募らせていきます。けれど、たった一つの光景を目にした瞬間、その苛立ちは跡形もなく崩れ去るのです。

この作品を、いま読む理由

電車の座席で、居合わせた誰かの身なりや振る舞いに、ふと小さな苛立ちを覚えたことは誰にでもあるでしょう。その苛立ちの根には、たいてい理由らしい理由はありません。ただ「自分の当たり前」に合わない、というだけのことです。芥川龍之介の「蜜柑」は、そうした無意識の値踏みと、それが崩れ去る一瞬とを描いた短編です。

二等客車に乗り合わせた語り手「私」は、みすぼらしい身なりの小娘に不快感を抱き、彼女が窓を開けようとする場面でその苛立ちは頂点に達します。ところが踏切に差しかかったところで、小娘が窓から蜜柑を投げる光景を目にした瞬間、「私」のまなざしはまるで別人を見るように反転するのです。

本稿では、この短編をまなざしの逆転の物語として読みます。語り手が最初に下す無意識の階級的な裁き――二等と三等という制度の線引きと、身なり・振る舞いに対する内面の線引き――が、たった一つの出来事によってどう崩れ去るのか。その崩壊の構造を原文に即して追いながら、百年前のこの偏見が、今の私たちの中にどれほど形を変えずに残っているかも併せて考えます。

作品の輪郭

いつ、誰が書いたか

「蜜柑」は芥川龍之介が、「新潮」1919(大正8)年5月号に発表した短編小説です。芥川はこの年27歳、すでに「羅生門」「鼻」「地獄変」などで文壇に地歩を築いていました。自然主義の作家たちが私小説的な赤裸々さを競っていたのに対し、芥川は虚構の技巧によって人間心理の陰影を切り取る作家として知られています。「蜜柑」もまた、汽車での一場面を周到な構成の心理劇に仕立て上げた作品です。

どんな話か(結末に触れずに)

物語は、横須賀発上りの二等客車に乗り込んだ語り手「私」の、云いようのない疲労と倦怠から始まります。発車の直前、十三、四の小娘が慌ただしく乗り込んできます。油気のない髪、皸だらけの頬、垢じみた襟巻――その身なりのすべてが、語り手の神経に障ります。彼女が握っているのは三等の赤切符。二等車には不釣り合いなその姿に、語り手は言いようのない不快感を募らせていきます。汽車が隧道にさしかかると、小娘は重い硝子戸を開けようと悪戦苦闘を始め、語り手の苛立ちはさらに募っていく――そこから先に何が起こるのかは、次章で見ていきます。

語りの構造

この作品が一人称の回想体で語られている点も見過ごせません。「私」は物語のあいだじゅう起きていることを逐一報告するだけではありません。末尾では「この時始めて……人生を僅に忘れる事が出来たのである」と、すでに出来事が過ぎ去った時点から振り返るようにして締めくくります。つまり読者が読んでいるのは、渦中の心の動きそのものというより、後になってその渦中の自分を見つめ直した「私」の証言です。

だからこそ語り手は、自分がいかに小娘へ不当な苛立ちを募らせていたかを、包み隠さず書き記すことができたのでしょう。もし本作が三人称で書かれていたなら、語り手の偏見はもっと客観的な観察として提示され、読者が自分自身の判断とじかに重ね合わせる余地は薄れていたはずです。一人称という形式そのものが、読者を語り手の内側に引きずり込み、その偏見に一度は付き合わされる構造をつくっているのです。

論点1:二等と三等——最初に下した「階級の裁き」

読者としてまず引っかかるのは、語り手の不快感の順序です。小娘が乗り込んできた瞬間、語り手の意識に最初に浮かぶのは、彼女がどの階級の客であるかではありません。まず来るのは、髪型や頬の荒れ、垢じみた襟巻といった、身なりそのものへの生理的な嫌悪です。三等の赤切符という「証拠」は、その嫌悪をあとから正当化するために持ち出されているにすぎない、と読むことができます。

それは油気のない髪をひっつめの銀杏返しに結って、横なでの痕のある皸だらけの両頬を気持の悪い程赤く火照らせた、如何にも田舎者らしい娘だった。(中略)その又包みを抱いた霜焼けの手の中には、三等の赤切符が大事そうにしっかり握られていた。

この描写の直後、語り手の判断は畳みかけるように三段になって現れます。

私はこの小娘の下品な顔だちを好まなかった。それから彼女の服装が不潔なのもやはり不快だった。最後にその二等と三等との区別さえも弁えない愚鈍な心が腹立たしかった。

「下品な顔だち」「不潔な服装」ときて、最後に「二等と三等との区別さえも弁えない愚鈍な心」という判断が置かれている構成に注目したいところです。制度上の階級区分は、この三段のいちばん最後、いわば結論として登場します。切符の等級という客観的な事実は、語り手にとってむしろ、すでに感じてしまった不快感を裏づけ、輪郭を与えるための道具として機能しているのです。言い換えれば、「なぜこの娘が自分と同じ車両にいるのか」という語り手の苛立ちは、階級制度そのものへの違和感というより、別のものに近いはずです。自分の車両という秩序だった空間に、見慣れない異物が紛れ込んだことへの反応、というべきでしょう。

普段目にしない身振りや、場にそぐわない振る舞いをする人に、理由の説明できない不快感を覚えるのは、程度の差こそあれ誰もが経験することです。それは、自分がこれまで当たり前だと思ってきた秩序を、何の断りもなく揺さぶられることへの防御的な反応でもあります。語り手はこの防御反応を、「二等と三等の区別も弁えない愚鈍さ」という、いかにも理性的な言葉に置き換えることで、自分の中の単なる不快感を、正当な判断であるかのように仕立てているのです。

この心の動きは、芥川がしばしば描いた人間のエゴイズムの構造と重なります。「羅生門」の下人は、老婆の行為を糾弾する自分の正義感の裏に、利己心が潜んでいることに無自覚でした。「蜜柑」の語り手もまた、自らの嫌悪感を階級という制度の言葉で語り直すことで、その嫌悪の身勝手さから目をそらしています。二等と三等という線引きは、鉄道会社が定めた制度であると同時に、語り手が自分の不快感を正当化するために借りてきた、もう一つの「制度」でもあるのです。

さらに踏み込むなら、「愚鈍な心」という評言そのものが、語り手の知的な優越感を暗に示してもいます。相手を「愚鈍」と評するとき、評する側は自分自身を「聡明」の位置に置いています。小娘の側から見れば、二等と三等の区別を弁えていないのではなく、単に三等の切符しか持っていない、というだけの事実に過ぎません。それを「弁えない愚鈍さ」と読み替えてしまう語り手のことばづかいにこそ、この短編が静かに告発している階級意識の根深さが表れているのでしょう。

論点2:窓を開けようとする手——理解できない他者への苛立ち

小娘の行動のうち、語り手をもっとも苛立たせるのは、汽車が隧道にさしかかろうとするまさにその瞬間、わざわざ閉まっている窓を開けようとする振る舞いです。読者としてまず気になるのは、この場面で語り手の苛立ちが、単なる不快感を超えて、ほとんど生理的な反発にまで高まっている点でしょう。

にも関らずこの小娘は、わざわざしめてある窓の戸を下そうとする、――その理由が私には呑みこめなかった。いや、それが私には、単にこの小娘の気まぐれだとしか考えられなかった。

理解できない行動を「気まぐれ」という言葉でしか説明できない語り手の姿には、他者の行為をその文脈ごと理解しようとする構えの欠如が表れています。人は、自分がこれまで出会ってきた日常のパターンに照らして他者の行動を解釈するものです。そのパターンに当てはまらない、非日常的な振る舞いに対しては、理由を探る前に、体がまず拒絶反応を示してしまう。これは百年前も今も変わらない、いわば人間の生存本能に近いものでしょう。見知らぬものへの警戒は、群れの中で身を守るための本能の名残なのかもしれません。

その拒絶は、次の一文で決定的な冷たさを帯びます。

だから私は腹の底に依然として険しい感情を蓄えながら、あの霜焼けの手が硝子戸を擡げようとして悪戦苦闘する容子を、まるでそれが永久に成功しない事でも祈るような冷酷な眼で眺めていた。

「永久に成功しない事でも祈るような」という表現は尋常ではありません。単に迷惑だと感じているだけでなく、相手の努力そのものが失敗することを望むという、悪意に近い感情がここにはあります。理解できない他者への苛立ちは、時にここまで先鋭化しうるのだという事実を、芥川は容赦なく書き留めています。

そして、この苛立ちは物理的な被害によっていよいよ頂点に達します。

元来咽喉を害していた私は、手巾を顔に当てる暇さえなく、この煙を満面に浴びせられたおかげで、殆息もつけない程咳きこまなければならなかった。

小娘の行動が「理解できない」だけでなく、実際に自分の身体を害するものとして立ち現れた瞬間です。喉を痛めている語り手にとって、煤煙を満面に浴びせられる経験は単なる不快を超えた実害であり、ここで語り手の苛立ちは、これ以上ないほどの正当性を得たかに見えます。読者もこの場面まで読み進めれば、語り手に同調しかけてしまうかもしれません。芥川はその苛立ちを読者にも一度共有させたうえで、次の場面でまるごと裏返してみせるのです。

さらに言えば、語り手は実際に一歩踏み出す寸前だったことも見逃せません。

もう窓の外が見る見る明くなって、そこから土の匂や枯草の匂や水の匂が冷かに流れこんで来なかったなら、漸咳きやんだ私は、この見知らない小娘を頭ごなしに叱りつけてでも、又元の通り窓の戸をしめさせたのに相違なかったのである。

「叱りつけてでも」という強い言葉が示すとおり、語り手を押しとどめたのは、小娘への理解でも寛容さでもなく、ただ土や枯草の匂いという偶然の外的条件にすぎませんでした。もし匂いが一瞬遅れて届いていたら、この物語はまったく違う結末を迎えていたかもしれません。理解も反省もないまま、苛立ちが行動に転じる一歩手前まで、語り手は追い詰められていたのです。

隧道という舞台装置にも、注意を払う価値があります。

物語の冒頭、語り手が抱えている「云いようのない疲労と倦怠」は、「雪曇りの空のようなどんよりした影」という言葉で語られています。汽車が最初の隧道にはいる場面では、「隧道へはいった一瞬間、汽車の走っている方向が逆になったような錯覚」を覚えたとも記されています。閉塞感と方向感覚の喪失は、作品全体を覆う暗いトーンと響き合っています。二度目の隧道――小娘が窓を開けようとする場面――で煙に包まれる体験は、この閉塞感が物理的な息苦しさとして語り手を襲う瞬間でもあります。暗闇の中で理解できない他者に苛立ち、息もできないほど咳き込む。視界も呼吸も奪われるこの状態こそが、直後に訪れる光と理解の場面を、いっそう鮮烈なものにする伏線として機能しているのです。

理解できないものを、理由を探る前に拒絶してしまう心の動きは、決して大正期の語り手だけのものではありません。見知らぬ誰かの振る舞いに反射的な不快感を覚えるとき、私たちもまた、この語り手とそう遠くない場所に立っています。次章で見るように、この隧道の中の苛立ちこそが、後に訪れる反転をいっそう鮮やかなものにしているのです。

論点3:降ってきた蜜柑——一瞬で反転するまなざし

苛立ちが頂点に達した直後、物語は一気に反転します。隧道を抜けた汽車が、貧しい町はずれの踏切にさしかかったとき、柵の向こうに三人の男の子が並んで立っているのが見えます。

窓から半身を乗り出していた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振ったと思うと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まっている蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送った子供たちの上へばらばらと空から降って来た。私は思わず息を呑んだ。そうして刹那に一切を了解した。

そのままの流れで、語り手は目の前の光景の意味を悟ります。

小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴こうとしている小娘は、その懐に蔵していた幾顆の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。

語り手の心情が瞬時に反転するのは、蜜柑という行為そのものの美しさに感動したというより、少女の行動の「意味」が一挙に理解できたからです。奉公に出る境遇、見送りに来た弟たち、その労に報いる蜜柑――ばらばらだった断片が一つの物語として像を結んだ瞬間、語り手は「刹那に一切を了解した」と書きます。理解できないものへの苛立ちが、理解できた瞬間に消え去るという構図は、論点2で見た拒絶反応とちょうど鏡合わせの関係にあります。

私は昂然と頭を挙げて、まるで別人を見るようにあの小娘を注視した。

ただし、この反転を単純な感動の物語として読むには、留保が必要でしょう。語り手がここで心を動かされたのは、目の前の出来事が、彼が先ほど汽車の中で読んでいた夕刊の記事――「講和問題、新婦新郎、涜職事件、死亡広告」――と同じ種類のものだったからかもしれません。他人事としての人情話を、生で目撃できたという興奮に近いのではないか、という読み方もできます。語り手はこの光景に感動する立場にはいても、その渦中に身を置く立場にはいません。蜜柑を投げるのは小娘であり、見送られるのは弟たちであり、語り手はあくまで二等車の窓の内側から、安全な距離を保ったまま、他人の労苦の結晶を美しいものとして眺めているにすぎないのです。二等の切符を持つ者だからこそ持ちうる余裕のあるまなざし、と言い換えてもよいかもしれません。

もし語り手自身が三等の切符を握る側にいたなら、この光景はことさら心を動かされるべき特別な出来事ではなく、見慣れた日常の一場面に過ぎなかったはずです。住む環境が違えば、同じ光景も違う意味を帯びる――語り手の理解もまた、部分的なものでしかないのでしょう。

物語の最後、語り手は次のように述懐します。

私はこの時始めて、云いようのない疲労と倦怠とを、そうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。

冒頭で語られた「云いようのない疲労と倦怠」が、ここでほぼ同じ言葉で回収される構成に注目したいところです。この円環構造は、語り手の心情が確かに救われたことを示しています。ただし、その救いが自分自身の外側に起きた出来事――しかも、決して自分の身には起こりえない他者の労苦――によってもたらされた点で、いくぶん皮肉な読後感も残します。語り手は変わったのか、それとも一瞬だけ心地よい物語を消費して、また元の倦怠に戻っていくのか。芥川はその答えを明示せず、読者に委ねたまま筆を置いています。

この短編が「蜜柑」と題されていることにも、あらためて目を向けたくなります。物語の主役は、視点人物である「私」でも、行動の主体である小娘でもなく、あの一瞬空を舞った蜜柑の色そのものなのかもしれません。原文は蜜柑を「暖な日の色に染まっている」と形容しています。

煤煙にまみれた隧道の暗闇、うす暗いプラットフォオム、暮色を帯びた町はずれ――作品全体を覆う陰鬱な色調のなかで、この一節だけが唯一、暖かい色を帯びています。芥川は、語り手の心情の変化を言葉で説明する前に、まずこの色彩の対比によって読者の感覚に訴えかけているのでしょう。タイトルが暗示しているのは、階級でも人情でもなく、一瞬だけ差し込んだその色そのものが、この物語の主題であるという読み方です。

時代を背負う言葉

「蜜柑」は「新潮」1919(大正8)年5月号に発表されました。物語の舞台となっている横須賀線は、東京と横須賀の軍港とを結ぶ路線として明治期に開通し、大正期には通勤・行楽の足としても定着していました。当時の日本の鉄道には、今日のような単一クラスの車両ではなく、一等・二等・三等という等級制の客車が存在し、運賃も設備も等級ごとに大きく異なっていました。二等車と三等車という区分は、単なる料金プランの違いにとどまらず、乗客の社会的な階層をそのまま可視化する装置として機能していたと考えられます。「私」が小娘の存在に違和感を覚えたのは、こうした制度があらかじめ用意していた「二等車にふさわしい乗客」という暗黙の基準に、彼女が当てはまらなかったからでもあるでしょう。

大正期は、明治以来の近代化が一定の完成を見た一方で、都市と農村、あるいは階層のあいだの格差が、それまで以上に人々の目に見える形で現れ始めた時代でもありました。地方から都市部への出稼ぎや奉公は、当時の社会でごく普通に見られる光景でした。小娘が「恐らくはこれから奉公先へ赴こうとしている」と語り手が推し量る場面は、そうした時代の空気を映し出す、さりげないが確かな一筆と言えます。

芥川龍之介自身は、東京帝国大学英文科を卒業した知識人であり、「私」とおそらくそう遠くない位置――二等車に乗る側――に生きた作家でした。だからこそ「蜜柑」は、単に小娘の健気さを称える物語ではなく、二等車の窓の内側にいる者のまなざしそのものを、静かに、しかし容赦なく解剖する作品になり得たのだと思います。

同時代の文壇にはもう一つ、見過ごせない潮流がありました。武者小路実篤や志賀直哉ら白樺派の作家たちは、人道主義の立場から人間の善性や共感を重んじる作品を数多く発表していました。「蜜柑」もまた、卑俗な現実に倦んだ知識人が、名もない人々の中に人間的な美しさを見出すという筋立てにおいて、こうした人道主義的な感受性と地続きの部分を持っていると読むことができます。

ただし芥川は、理想をまっすぐに肯定するのではなく、その理想的な感動がどのような立場から発せられているのかまで、冷静に見つめる視線を失いませんでした。「蜜柑」が単なる人情物語に終わらないのは、この一歩引いた自己省察の視線のためでしょう。

日常の中の二等と三等

満員電車で足を組んで座る人、レジで手間取る高齢者、聞き取りにくい訛りで話す誰か――そうした場面で、自分の中に一瞬だけ湧き上がる小さな苛立ちに、身に覚えのない人は少ないでしょう。その苛立ちの多くは、相手の事情を知らないまま、見た目や振る舞いだけを手がかりにして下された、いわば即席の判決です。芥川が「私」に下させた「愚鈍な心」という裁きと、私たちが日々くだしているこの種の判断は、実のところそう遠くはありません。

厄介なのは、その裁きがたいてい当人の中だけで完結してしまう点です。「蜜柑」の語り手は、たまたま踏切での場面に居合わせたことで、小娘の事情を知り、自分の判断が誤っていたことに気づく機会を得ました。しかし現実の私たちは、種明かしの場面に立ち会うことなく、苛立ちを苛立ちのまま抱えて電車を降りていくことのほうが多いはずです。判断を覆す機会が訪れなかったというだけで、その判断が正しかったことにはならないでしょう。

誰かの振る舞いに理由のわからない苛立ちを覚えたとき、その人にも自分の知らない蜜柑があるのかもしれない、と考えてみる。それは相手を許すためというより、自分がくだした裁きの根拠の薄さを、一度は疑ってみるための構えです。「私」が窓の外に見たのは、小娘の事情である以上に、自分自身の値踏みの浅さそのものだったのでしょう。

もっとも、この構えを持ち続けるのは簡単ではありません。忙しない毎日のなかで、目の前を通り過ぎるすべての人の事情に思いを巡らせる余裕など、誰にもそうそうありはしないからです。だからこそ「蜜柑」が示しているのは、いつでも寛容であれという理想論ではなく、自分が下した判断もまた、いつか裏切られるかもしれないという程度の、慎み深さなのだと思います。

新古典として、今

「蜜柑」が発表されてから百年以上が過ぎましたが、そこに描かれた心の動きは古びていません。理解できないものを拒絶し、理解できた瞬間だけ心を開く。その往復運動は、情報が瞬時に行き交う現代においても、形を変えて繰り返されています。むしろ、見知らぬ他者の姿を一瞬で判断してしまう機会は、当時よりも格段に増えているとさえ言えるでしょう。

芥川はこの短編で、語り手の偏見を断罪することも、その反転を手放しに賛美することもしませんでした。ただ、隧道の暗闇から踏切の光へと移り変わる数分間に起きた心の揺れを、丹念に描き切っただけです。断定を避けたその筆致こそが、「蜜柑」を単なる美談にも、単なる階級批判にも回収されない、息の長い作品にしているのだと思います。

情報環境がここまで発達した今、私たちは芥川の語り手よりもずっと多くの他人の断片的な情報に、日々さらされています。プロフィール欄の数行、投稿の一部分、すれ違う一瞬の様子――そこから下す判断の材料は、むしろ語り手が汽車の中で得ていたものより少ないことすらあります。だからこそ、「刹那に一切を了解した」という語り手の経験は、今の私たちにとってむしろ希少なものに見えるのかもしれません。誰かの事情を、蜜柑が降ってくるように理解できる機会は、そう頻繁には訪れないのです。

二等と三等という制度は、今の私たちの暮らしにそのままの形では残っていません。しかし、誰かを見た目や振る舞いだけで値踏みしてしまう心の癖は、切符の等級よりもずっとしぶとく、私たちの内側に住み続けています。「蜜柑」を読み返すたびに問われているのは、芥川の時代の話ではなく、今この瞬間、自分が誰かに下しているかもしれない、名もなき裁きのことなのでしょう。


本文の引用は、青空文庫版『蜜柑』(底本:『蜘蛛の糸・杜子春』新潮文庫、新潮社)に拠りました。

『蜜柑』は青空文庫で全文を無料で読むことができます。ぜひ原文にあたってみてください。

芥川龍之介『蜜柑』(青空文庫)

『舞姫』を、"弱さ"の弁明として読む

弱かったのだ、と誰もが言う。

夜更けの船室で、ひとり便箋に向かい、これまでの日々を文字に綴る男がいる。石炭を積み終えた船は静まり返り、灯りの下には彼一人しかいない。そこに記されるのは、痛切な悔恨なのか、それとも周到に用意された弁明なのか。書かれた言葉が誠実であればあるほど、かえって疑いたくなることがある。読み終えたとき、私たちは彼を裁く前に、まず自分自身に問わずにいられなくなる——自分もまた、同じ言い訳を、同じ体裁のよい言葉で塗り固めてはいないだろうかと。

この作品を、いま読む理由

森鴎外の『舞姫』は、帰国の船上でひとり筆をとる太田豊太郎の回想録という体裁をとっています。物語の全篇を貫いているのは、「わが弱き心」ということばです。学問に優れ、周囲の期待に応え続けてきた青年官吏が、自由な学風に触れて自我に目覚め、恋に落ち、しかし最後にはその恋人を置き去りにして帰国する——その一部始終を、彼自身が「弱かったから仕方がなかった」と語ります。

しかし、ここで立ち止まってみたいと思います。反省とは本来、自分の行いの責任を引き受けることのはずです。ところが豊太郎が繰り返す「弱き心」ということばは、責任を引き受けるどころか、むしろ自分を「そうならざるを得なかった被害者」の位置に置き直してしまってはいないでしょうか。

本稿では、『舞姫』を単なる悲恋小説として読むのではなく、一人称の語り手が自らの加害を「弱さ」という言葉でどこまで巧妙に語り直しているか——その語りの構造そのものを読み解いていきます。この視点に立つとき、『舞姫』はエリスとの悲恋の物語であると同時に、自分の弱さを語ることによって責任から静かに身をかわしていく、ひとつの巧みな語りの記録として立ち現れてきます。

作品の輪郭

いつ、誰が書いたか

『舞姫』は、1890年(明治23年)1月、雑誌『國民之友』第六十九号(民友社)に発表された短編小説です。底本の凡例によれば、初出時の署名は「鴎外森林太郎」でした。前年の1889年には大日本帝国憲法が発布されており、近代国家としての制度が急ピッチで整えられていた時期にあたります。作者の森鴎外は1880年代にドイツへ留学した経験を持ち、その体験が本作の骨格に投影されていると言われます。ただし、物語の細部をそのまま作者の実体験と同一視することは慎むべきでしょう。

どんな話か(結末に触れずに)

物語は、ドイツから日本へ帰る船の中、太田豊太郎という青年官吏の一人称による回想として語られます。学問に優れ、周囲の期待に応え続けてきた豊太郎は、官命によるドイツ留学を果たし、ベルリンの大学で政治学を学びはじめます。しかし自由な学風に触れるうち、これまで自分を動かしてきたのが「所動的、器械的」な従順さにすぎなかったことに気づいていきます。

ある日の夕暮れ、古寺の前で声を殺して泣く一人の少女と出会います。貧しい仕立物師の娘エリスでした。豊太郎は困窮する彼女に手を差し伸べたことをきっかけに交際を深めていきますが、この関係はやがて同郷の留学生たちの知るところとなり、豊太郎は職を追われてしまいます。ここから先、二人がどのような道をたどるのかは、本作の核心に関わるため、この輪郭紹介では触れずにおきます。

なお、「舞姫」という題名そのものが、当時の日本語読者にとってはまだ馴染みの薄かった、西洋の舞台で踊る踊り子を指す言葉でした。エリスが日々の生計を支えていた劇場の踊り子という職業は、読者にとって、遠いヨーロッパの都市の空気をまとった、異国情緒の象徴でもあったはずです。

論点1:「弱き心」という自己申告は信用できるか

読者としてまず引っかかるのは、豊太郎が与えられたものをどこまでも忠実にこなしてきた人物だという点です。学問も、官吏としての務めも、彼は一級の成績で完璧にやり遂げます。しかしその内側で何を思っていたとしても、それに「抗う」ということを一度もしていません。周囲の意見や場の空気に、いつも黙って従ってしまう——優柔不断というより、むしろ意志そのものを持たないよう、自分を訓練してきたかのようです。

彼自身、この状態を鋭い言葉で名指してもいます。

ただ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが

「所動的」「器械的」ということばは、人から動かされるままに動く、意志を持たない道具のような人物、という意味です。皮肉なのは、この自覚が芽生えたのが、まさに大学で自由な学問に触れ、独立の思想の兆しを得たはずの時期だったという点です。目覚めかけた自我と、これまでの従順さへの自覚は同時にやってきましたが、豊太郎はその自我を行動へとつなげることをしませんでした。気づくことと、変わることのあいだには、決定的な距離があったのです。

この見立ては、豊太郎自身の言葉によっても裏づけられます。大学の自由な学風に触れてはじめて、彼はそれまでの自分の勤勉さの正体に気づきます。

耐忍勉強の力と見えしも、みな自ら欺き、人をさえ欺きつるにて、人のたどらせたる道を、ただ一条にたどりしのみ。

忍耐と努力に見えたものは、実は自分自身を欺き、他人をも欺く行為にすぎず、ただ人の敷いた道を一筋にたどっていただけだった——この一文は、優等生としての豊太郎の内実を過不足なく言い当てています。母は彼を「活きたる辞書」に、官長は「活きたる法律」に仕立てようとしていたと豊太郎は振り返りますが、そのどちらの役割も、彼自身の欲望や判断とは無縁に、外側から与えられたものでした。

ここで注目したいのは、「弱き心」という自己開示そのものが果たしている役割です。自分を弱いと名指すことは、一見すると謙虚な反省に見えます。しかし裏を返せば、それは責任の所在を自分の「意志」から「性質」へとすり替える身振りでもあります。

弱いのだから仕方がなかった、と言えてしまえば、なぜ抗わなかったのか、なぜ流されたのかという、その先の問いを引き受けずに済みます。豊太郎自身、これを見透かすように書いています。

ただ外物に恐れて自らわが手足を縛せしのみ。

みずから手足を縛った、という言い回しは示唆的です。縛られたのではなく縛ったのは自分だという自覚がありながら、それでも彼はその「弱さ」を、周囲の期待に応え続けるための、いわば安全な生き方として選び取っていたようにも読めます。マジョリティの望むとおりに振る舞ってさえいれば、誰からも咎められない。自分を押し殺すことは、たしかに面倒の少ない生き方です。だからこそ豊太郎の語りには、この生き方への疑いも同時ににじみます。のちにエリスと出会うことになるこの人物は、自らをこう総括してもいます。

わが心は処女に似たり。

受け身であることを穢れのなさになぞらえるこの比喩自体、みずからの弱さを美化してしまう語りの癖をよく表しています。ここに、「自分は本当に存在しているのか、意思を持っているのか」という、豊太郎自身も逃れられない疑心が透けて見えます。

他人の敷いた道をただ辿るだけのこの姿勢は、ここで終わりません。のちにエリスとの関わり方のなかで、形を変えて繰り返されることになります。弱さの自己申告は、反省の言葉であると同時に、次の場面でも同じ選択を許してしまう、あらかじめ用意された言い訳でもあるのです。

論点2:二つの「即答」に露呈するもの

この決断の背後にあるのは、恋愛感情そのものというより、自身のキャリアに対する不安ではないでしょうか。

豊太郎はすでに一度、エリスとの交際が同郷の留学生たちに知られたことをきっかけに免官という手痛い代償を払っています。日本に帰る道を断たれかねないという恐怖を一度味わった者にとって、差し出された機会を手放す選択肢は、実質的に残されていなかったのかもしれません。エリスとベルリンで生きる道と、日本での栄達とを天秤にかけながら、最終的に選び取ったのは後者でした。

免官のきっかけとなったのも、まさに評判への恐れでした。同郷の留学生たちは、豊太郎とエリスの交際を知ると、こう決めつけます。

彼らは速了にも、余をもて色を舞姫の群れに漁するものとしたり。

見境なく踊り子遊びにふける放蕩者——そう見なされることが、豊太郎にとって何より恐ろしかったのです。実際にはエリスとの関係は、彼自身が振り返るとおり「よそ目に見るより清白」なものでしたが、周囲の目に映る像を訂正する術を、豊太郎は持ちませんでした。この一件がやがて官長の耳に入り、免官という結果を招きます。

免官ののち、豊太郎を助けたのは友人の相沢謙吉でした。相沢は職を失った豊太郎に通信員の口を世話し、さらにある日、エリスとの関係を断つよう諭します。豊太郎はこれに深く逆らうことができませんでした。

おのれに敵するものには抗抵すれども、友に対して否とはえ対えぬが常なり。

敵には抗えても、信頼する友には逆らえない——この一文は、直後に訪れる天方伯への即答を、すでに予告しているかのようです。

この読みは、原文の描写とも符合します。物語の後半、豊太郎は天方伯から突然の問いを受けます。魯西亜(ロシア)行きに随行できるかという問いに、彼はこう即答します。

「いかで命に従わざらむ」

続けて豊太郎自身が、この即答の中身を分析しています。

この答はいち早く決断して言いしにあらず。余はおのれが信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問われたるときは、咄嗟の間、その答の範囲をよくも量らず、直ちにうべなうことあり。

信頼する相手に不意に問われると、内容をよく検討しないまま頷いてしまう——これは論点1で見た「弱き心」の、より具体的な発露にほかなりません。そして、この習い性はもう一度、決定的な場面で繰り返されます。ロシアから戻った豊太郎は、身重のエリスと再会し、彼女が生まれてくる子のために襁褓を縫う姿を目にして束の間の幸福に浸ります。ところがその数日後、天方伯から日本への同行を打診されると、迷う暇もなくこう答えてしまうのです。

「承り侍り」

豊太郎自身、この即答の意味を見誤ってはいません。

ああ、何らの特操なき心ぞ、「承り侍り」と応えたるは。

なんら確固たる志操を持たない心だ、と彼は自らを断じます。ここで注目すべきは、この返事を導いた感情が、エリスへの愛情の消失ではなく、「本国をも失い、名誉を挽きかえさん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧州大都の人の海に葬られん」ことへの恐怖だったという点です。つまり、豊太郎を動かしたのは、まさにキャリアという足場を失うことへの保身の心理でした。

興味深いのは、二度目の即答のあとに置かれた「何らの特操なき心ぞ」という一句が、論点1で見た「弱き心」という自己申告よりも、はるかに手厳しい言葉になっている点です。しかしこれもまた、船上の回想という統制された語りの枠のなかで、後から差し挟まれた自己評価にすぎません。厳しい言葉を差し挟むことで、豊太郎は反省しているように見えます。

けれども、その反省の言葉すら、彼が過去の自分を裁く権利を今も保持していることの証にもなっています。裁く主体でいられる限り、彼は完全な加害者の座には立たずに済むのです。

論点3:エリスの声は誰の言葉として書かれているか

これまで見てきた「弱き心」も「即答」も、すべて豊太郎自身の内省でした。しかし、この一人称の回想録において、最も痛切であるはずの場面——エリスが心を壊す瞬間——に、豊太郎自身は立ち会ってすらいません。天方伯に「承り侍り」と答えた直後、彼は路上で昏倒し、数週間にわたって熱に浮かされて意識を失います。エリスが豊太郎の裏切りを知り、絶叫して倒れたその瞬間、それを見ていたのは相沢と老いた母だけでした。

だからこそ、この物語で最も重要な出来事は、伝聞という形でしか語られません。

のちに聞けば彼は相沢に逢いしとき、余が相沢に与えし約束を聞き、またかの夕べ大臣に聞こえ上げし一諾を知り、にわかに座より躍り上がり、面色さながら土のごとく、「わが豊太郎ぬし、かくまでにわれをば欺きたまいしか」と叫び、その場にたおれぬ。

「のちに聞けば」という一言が、この場面の性質をすべて言い当てています。エリスの絶叫は、彼女自身の言葉として記されてはいますが、それは相沢が見聞きし、豊太郎に語って聞かせ、豊太郎がさらに文字に起こしたものです。幾重にも人の手を経て届いた声を、私たちはエリス自身の肉声だと信じて読んでいるにすぎません。

この構造は、豊太郎の語り全体の性質を象徴してもいます。豊太郎は自分自身の弱さについては饒舌に語りながら、エリスの内面については、彼女が壊れてしまったあとの姿しか描くことができません。

もっとも、エリス自身の言葉が、比較的まとまった形で読者に届く箇所が一つだけあります。豊太郎がロシアへ発ったのち、彼女から届いた手紙です。

否、君を思う心の深き底をば今ぞ知りぬる。……いかなる業をなしてもこの地に留まりて、君が世に出でたまわん日をこそ待ためと常には思いしが……よしやいかなることありとも、われをばゆめな棄てたまいそ。

この手紙は、彼女の不安と献身をまっすぐに伝える、作中でもっとも直接的にエリスの声へ近づく瞬間です。けれども、豊太郎がこの手紙を書き写した理由は、彼女の内面を読者に伝えるためではありませんでした。彼はこう続けています。

ああ、余はこの書を見て始めてわが地位を明視し得たり。

エリスの手紙は、ここでも豊太郎自身の目を開かせるための小道具として機能しています。彼女のもっとも切実な言葉でさえ、豊太郎の自己認識を進める燃料に変換されてしまう——この一点に、この回想録が誰のために書かれているかが、もっとも露骨に現れているといえるでしょう。

相沢の助けにて日々の生計には窮せざりしが、この恩人は彼を精神的に殺ししなり。

ここで豊太郎は、エリスを壊した責めを「恩人」である相沢に負わせています。しかし、相沢に約束を破ったと告げたのは豊太郎自身であり、天方伯に即答したのも豊太郎自身でした。伝聞の陰に隠れることで、豊太郎はここでもまた、加害の実感からわずかに身をかわしているようにも読めます。

もう一つ見逃せないのは、この破局が、皮肉にも豊太郎のキャリアを再び軌道に乗せてしまう点です。エリスと出会い、彼女を助けたことから物語は動き出し、その関係ゆえに豊太郎の官吏としての将来は一度崩れかけました。しかし、エリスが心を失ったことで、彼女との約束や係累は事実上消滅し、豊太郎は大臣とともに帰国の途につくことができるようになります。彼自身がそう望んだわけではないとしても、結果として、エリスの破滅が豊太郎の人生を元の軌道へ押し戻す働きをしてしまった、とも読めます。

物語の最後、豊太郎はこう書き記します。

されどわが脳裡に一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり。

長い年月を経てもなお、豊太郎の心に残っているのは、エリスへの悔恨ではなく、相沢への一点の恨みです。この結びの一文は、これまでの回想録全体の性格を、皮肉なかたちで裏づけています。エリスの声を奪い、彼女を伝聞の中に押し込めてきた語りは、最後の最後まで、自分自身の内面の整理にしか関心を向けていないのです。

時代を背負う言葉

『舞姫』が発表されたのは、1890年(明治23年)1月、雑誌『國民之友』第六十九号でした。この年は、前年に発布された大日本帝国憲法のもとで初の衆議院議員選挙が行われ、11月には第一回帝国議会が開かれた年でもあります。近代国家としての制度が急ピッチで整えられていくなかで、個人の内面をどう描くかという、それまでの日本の文学にはさほどなかった主題が、少しずつ模索され始めていた時期にあたります。

掲載誌の『國民之友』は、徳富蘇峰が主宰した民友社の雑誌で、政治・社会評論を中心に、平民主義を掲げたことで知られる総合雑誌です。娯楽としての小説を載せる媒体というより、社会や思想を論じる読者層に向けた場に、豊太郎という一人の官吏の内面の記録が置かれたことになります。

豊太郎の経歴そのものも、時代の制度を色濃く映しています。明治政府は近代化を急ぐなかで、見込みのある若者を選抜し、官費でヨーロッパへ留学させるという仕組みを整えていました。留学は個人の名誉であると同時に、国家からの投資でもあり、成果を出して帰国することが当然の前提とされていました。豊太郎が免官という処分をこれほど恐れたのは、単に職を失うことへの不安にとどまらず、国家の期待を裏切った者としての烙印を負うことへの恐れでもあったはずです。

豊太郎が衝撃を受けた「自由なる大学の風」も、この時代背景を踏まえるとその輪郭がはっきりします。当時のドイツの大学には、学生が自分の関心に応じて講義を選び取れる自由な学風があり、官僚養成を目的とした画一的な教育制度のもとで育った豊太郎にとって、これは初めて触れる異質な空気だったはずです。

さらに、豊太郎を追い立てていたのは、国家だけではありません。作中で語られるとおり、彼は早くに父を失い、「一人子の我を力になして世を渡る母」の期待を一身に背負って育っています。学問によって身を立てることが、個人の選択である以上に、家全体の存続を左右する行為だった時代——立身出世という言葉が、まだ強い実感を伴っていた時代の空気を、この作品は色濃く背負っています。

もう一つ触れておきたいのは、この作品が選び取った文体そのものです。『舞姫』は、当時すでに広がりつつあった言文一致体(話し言葉に近い口語体)ではなく、雅文体と呼ばれる、和漢混淆の格調高い文語文で書かれています。近代的な自我の苦悩という、きわめて新しい主題を、古典的な文体に載せて語るという選択自体が、過渡期の文学がまとっていた独特のねじれを体現しているといえるでしょう。

即答という名の逃避

私たちは、豊太郎のように大きな決断の場面では慎重でありたいと思っています。けれども実際に人生を左右するのは、多くの場合、そう身構えて臨んだ場面ではなく、不意に問われて反射的に発してしまった一言だったりします。

上司から急な異動や出向を打診されたとき。信頼している先輩やグループの誘いに、断る理由を探す間もなく「大丈夫です」と答えてしまったとき。私たちもまた、豊太郎が天方伯に向かって発した「いかで命に従わざらむ」と、さして変わらない速さで頷いていないでしょうか。

厄介なのは、その即答の多くが、明確な悪意や打算からではなく、相手を信頼しているからこそ生まれるという点です。豊太郎は「おのれが信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問われたるとき」に、考える間もなく応じてしまうと自ら分析していました。信頼は、本来なら安心して立ち止まれる場所のはずです。ところが皮肉なことに、その信頼こそが、熟考を飛ばして即答へと駆り立てる力にもなり得ます。

豊太郎を弱い、身勝手だと切り捨てるのは簡単です。しかし、断れないまま頷いてしまった経験の一つや二つ、思い当たらない人がどれだけいるでしょうか?

違うのは、豊太郎の場合、その一言の先に、一人の人間の人生が置き去りにされていたという重さだけです。即答の軽さと、それがもたらす結果の重さのあいだにある落差——そこに気づけるかどうかが、この物語を過去の話として片づけずに読めるかどうかの分かれ目になります。

多くの場合、こうした即答の代償は、その場では見えません。豊太郎自身、「承り侍り」と答えた直後には、自分が何を失ったのかにまだ気づいていませんでした。取り返しのつかなさが姿を現すのは、たいてい、もっとあとになってからです。だからこそ、今まさに何かに即答しようとしている自分に気づけるかどうかが、豊太郎と私たちを分ける、ほとんど唯一の違いなのかもしれません。

新古典として、今

『舞姫』を、身勝手な男が女を捨てる話として片づけてしまうのは簡単です。けれども、そう断じた瞬間に、私たちは豊太郎がやったのとまったく同じことをしているのかもしれません。彼を「弱い人間だった」という一言で処理してしまえば、自分自身の「抗えなさ」を直視せずに済むからです。

森鴎外自身の経歴に材を求めた読み方をしたくなる誘惑もありますが、本稿ではあえてその誘惑を退けました。『舞姫』を作者の実体験の告白として読んでしまえば、豊太郎の語りが持つ「弱き心」への逃避そのものを、私たちもまた見逃してしまうことになるからです。ここまで見てきた三つの局面は、いずれも一つの構造に行き着きます。自分を弱いと語ること、反射的に頷くこと、他人の言葉として過去を語ること——そのすべてが、豊太郎を過去の行いから少しずつ遠ざける働きをしていました。

この作品が百三十年以上を経てなお読み継がれているのは、太田豊太郎という一人の人物の告白が、時代を超えて機能する語りの構造を持っているからでしょう。反省の言葉を尽くしながら、その言葉自体が責任を遠ざける道具になってしまう——この矛盾は、明治の官吏だけのものではありません。私たちもまた、後悔を語ることで安心し、語り終えた時点で、まるでそれが清算されたかのように振る舞ってしまうことがあります。

夜更けの船室で、太田豊太郎はひとり筆を動かし続けています。その手元を覗き込むとき、私たちが見ているのは、百年以上前の一人の官吏の弱さだけではありません。反省と弁明の境界線を、自分では判別できないまま生きている、私たち自身の姿でもあるはずです。『舞姫』を読み返すたび、この境界線がどこにあるのか、もう一度確かめたくなります。


本文の引用は、青空文庫版『舞姫』(底本:「舞姫」集英社文庫、集英社、1991年3月25日第1刷・2011年3月8日第13刷)に拠りました。

『舞姫』は青空文庫で全文を無料で読むことができます。ぜひ原文にあたってみてください。

森鴎外『舞姫』(青空文庫)

なぜ、臆病な下人は盗人になれたのか——『羅生門』の「勇気」を読む

自分は、ぜったいにあんなことはしない。そう思っていたはずの一線を、いつの間にか越えている——そんな覚えは、ないでしょうか?

大きな決断をしたつもりはないのに、少し前の自分なら眉をひそめたはずのことを、気づけば平気でしている——そんな瞬間が、あなたにもあるかもしれません。しかもその時には、もっともらしい理由が、ちゃんと手もとにそろっているのです。

人が悪いほうへ傾くのは、たいてい、雷に打たれるような一瞬ではありません。もっと静かで、もっと日常的な、小さな「まあ、仕方がない」の積み重ねです。

はるか昔の、雨の降りしきる京の門の下に、まさにその小さな一歩を踏み出そうとしている、一人の若者がいます。

この作品を、いま読む理由

「羅生門」を、悪人の物語として読むと、おそらく何も残りません。荒れ果てた門、打ち捨てられた死骸、その傍らでうごめく人影——情景だけを拾えば、ただ暗く、後味の悪い挿話に見えるでしょう。それでもこの短編がいまなお読み継がれているのは、ここに「悪人」がひとりも出てこないからだと、私は考えています。

門の下にうずくまっているのは、主人に暇を出され、明日の食い扶持のあてもない、ごくふつうの弱い男です。彼は盗人になる度胸すら持てずにいます。ところがこの臆病な男の心は、たった一夜のあいだに、思いもよらない方向へ動いていく。芥川龍之介がこの作品で描いたのは、犯罪そのものではありません。善良でありたいと願う心が、どんな順序でほどけていくのかという、その手つきの方なのです。

鍵になるのは「勇気」という言葉です。作者はこの一語を、同じ物語のなかで正反対の向きに使い分けます。悪をためらわせる勇気と、悪へ背中を押す勇気。まったく逆を向いた二つが、ひとしく「勇気」と呼ばれてしまう——その一点に、この作品の静かな恐ろしさが畳み込まれています。

そこでこの記事では、下人の心が幾度か姿を変えていく道筋を、テクストに沿ってたどってみます。彼を裁いたり、笑ったりするためではありません。追い詰められたとき、私たち自身がどんな順序で「仕方がない」と呟いてしまうのか——それを、彼の背中越しに確かめておきたいのです。

作品の輪郭

いつ、誰が書いたか

「羅生門」が発表されたのは、『帝国文学』大正四年(一九一五年)十一月号でした。作品の末尾には、「(大正四年九月)」と書きつけられています。芥川龍之介がまだ二十代の前半、東京帝国大学英文科に在学していたころの、ごく初期の一編です。

物語の骨格は、作者の空想ではありません。平安時代末の説話集『今昔物語集』巻二十九におさめられた短い一話——羅城門の楼上で、死人の髪を抜く老婆に出くわす男の話——に材を取っています。古い説話を借りながら、そこへ近代人の心理を彫り込んでいく。この方法は、翌年、やはり『今昔物語集』に取材した「鼻」を夏目漱石が高く評価したことでも知られ、のちに「王朝物」と呼ばれる芥川の一連の作品の出発点になりました。

どんな話か(結末に触れずに)

舞台は、荒れ果てた平安の京です。地震や辻風、火事や饑饉が続き、都はすっかりさびれています。羅生門も修理する者とてなく、いつしか引き取り手のない死人が捨てられる場所になっていました。

その門の下で雨やみを待つのが、主人に暇を出されたばかりの一人の下人です。帰る家も、明日の糧のあてもありません。「饑死をするか盗人になるか」——そこまで思いつめながら、彼には盗人になるだけの「勇気」が出せずにいます。なお、作者はこの男に名前を与えていません。ただ「下人」——主家に仕える身分の呼び名だけで、最後まで通します。名を持たないことによって、彼は特定の誰かではなく、いつの世にもいる私たちの隣人になります。

やがて寒さに耐えかね、せめて一晩の宿にと、下人は門の楼へ上っていきます。すると、暗がりに転がる死骸の中に、火を掲げてうずくまる一人の老婆がいます。その老婆は、若い女の死骸の髪を、一本ずつ抜いているのです。——物語がほんとうに動きだすのは、この出会いからでした。ここから先、下人の心に何が起こるのかは、本論でゆっくり読み解いていきます。

論点1:三度変わる「勇気」——面皰の下人の心の推移

読者としてまず面白いのは、この短い物語のなかで、下人の心が三度も向きを変えることです。寄せられた見立て——「盗人になる」から「死体を漁る老婆を捕える」へ、そして「饑死しないために引剥ぎをする」へ、という三段階——は、そのまま物語の背骨をなぞっています。しかも芥川は、この三つの局面のどれにも、同じ「勇気」という一語をあてがっているのです。

出発点の下人は、ひどく臆病です。主人に暇を出され、明日をもしれぬ身の上で、彼は、盗人になるか饑死するか、と思いつめます。けれども、その一歩がどうしても踏み出せないのです。

下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「盗人になるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。

ここでの「勇気」は、悪へ踏み出すための勇気です。そして下人には、それが「出ずにいた」。彼を押しとどめているのは、けっして高潔な倫理ではなく、ただ踏ん切りのつかない気弱さにすぎない——この見極めが、あとあとまで効いてきます。

面皰(にきび)の描写が、その気弱さにぴたりと寄り添います。物語の冒頭、下人は「右の頬に出来た、大きな面皰を気にしながら」雨を眺めていました。頬の面皰は、彼の若さと、宙ぶらりんの手持ち無沙汰をそのまま形にしたようです。以後、下人が思いをめぐらせ、ためらう場面のたびに、この面皰はくり返し顔を出します。

二度目の「勇気」は、楼の上で訪れます。死骸の髪を抜く老婆を見た下人の心に、「あらゆる悪に対する反感」が燃え上がります。さきほどまで自分が盗人になろうとしていたことなど忘れ、彼は正義の人となって老婆に飛びかかります。この、老婆を捕えたときの憤りもまた、のちに作者の手ではっきり「勇気」と呼び直されます。悪をためらう気弱さから、悪を憎み裁く側へ——ここで針が一度、大きく振れます。

見のがせないのは、この正義の激情を、芥川が老婆の手もとの火にたとえていることです。悪を憎む下人の心は、「老婆の床に挿した松の木片のように、勢いよく燃え上り出していた」と描かれます。死骸の顔を照らすために老婆がかざす、あの松明と同じ火で、下人の義憤もまた燃えています。裁く者と裁かれる者を、ひとつの炎がひそかに結んでしまう——この比喩の不穏さは、読み進めるほどに、じわりと効いてきます。

ところが、三度目の「勇気」が、そのすべてをひっくり返します。

老婆の弁明を聞き終えた下人の内側に、作者は決定的な一文を置きます。

しかし、これを聞いている中に、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。

わずか一段落のなかに、三つの「勇気」が畳み込まれています。門の下で「欠けていた」勇気、老婆を「捕えた時の」勇気、そしていま「反対な方向に動こうとする」勇気。悪をためらう心と、悪を裁く心と、悪へみずから踏み込む心——本来なら別々の名で呼ぶべき衝動が、ことごとく「勇気」の一語で塗りつぶされていきます。この語のむとんちゃくさこそが、下人の変節を変節と感じさせない、巧妙な仕掛けになっています。

そしてこの瞬間、面皰がもう一度、決定的な意味を帯びます。老婆の話を聞くあいだ、下人は「赤く頬に膿を持った大きな面皰を気にしながら」聞いていました。ところが、いざ動くその時——

不意に右の手を面皰から離して、老婆の襟上をつかみながら

迷いの象徴だった面皰から、彼はついに手を離します。気弱な若者が面皰をいじる仕草をやめたとき、下人はもう、ためらう人ではなくなっているのです。

寄せられたコメントは、この三段階の果てに、鋭い問いを立てていました。老婆も、老婆が髪を抜く死骸も、生前は生きるために罪を犯していました。誰もがそうやって生き延びる世界で、下人ひとりが倫理に立ちどまって迷う必要が、はたしてあったのか——と。物語は、その問いに「勇気」という名の答えを返します。

迷いを手放すことを、私たちはしばしば成長と呼び、勇気と呼びます。芥川がたった一夜の下人の心に凝縮してみせたのは、まさにその言葉づかいの危うさにほかなりません。

論点2:「仕方がない」は誰を許すのか——老婆の論理と、その反射

論点1で見たとおり、下人を悪へ押し出したのは、老婆の言葉でした。ではその言葉は、いったい何を語ったのでしょう。寄せられたコメントは、ここで核心を突いています。老婆は誰かに許しを乞うているのではなく、「自分自身が、その非道を許している」のだ、と。

その理屈を読み解く前に、それを語る老婆の姿を、しばらく見ておきたいと思います。芥川は老婆を、どこまでも人ならぬものとして描いています。「猿のような」老婆と紹介され、その声は「鴉の啼くような声」、口ごもれば「蟇のつぶやくような声」。下人をにらむ眼は「肉食鳥のような、鋭い眼」です。生きるために死者から毟りとるという剥き出しの論理は、こうして薄闇の底からせり上がる、けものめいた声で語られます。そのおぞましさが、これから聞く理屈への嫌悪を、あらかじめ下人の中に——そして読者の中に——用意していきます。

老婆の弁明を、順に読み直してみます。

成程な、死人の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。

まず老婆は、自分の行いが「悪い事かも知れぬ」と認めます。悪の自覚はあります。そのうえで、相手が「されてもいい人間」だったと持ち出します。髪を抜かれている女は、生前、蛇を干魚と偽って売っていた——だから報いを受けて当然だ、という理屈です。

続けて老婆は、その女のことすら弁護してみせます。

わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。

ここに、老婆の論理の要(かなめ)があります。「饑死をするのじゃて、仕方がなく」——生きるためだったのだから仕方がない、というのです。この一語が、女の詐欺を許し、そっくり同じ形で、老婆自身の死体あさりをも許します。悪だと知りながら、「仕方がない」でくるみます。そうして最後に、老婆はこう締めくくります。

じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。

コメントの指摘が鋭いのは、まさにここです。老婆は「大目に見てくれるであろ」と、許しの主体を死んだ女に預けています。けれども、死者はもう何も言えません。異議を唱えられない相手に「あなたも許してくれるはず」と語りかけるとき、ほんとうに許しを出しているのは、老婆自身にほかなりません。他人の名を借りた、自家発電の赦免——それが「仕方がない」という言葉の正体だと、この場面は静かに暴いています。

やっかいなのは、この論理がひとりの内側にとどまらないことです。冷然と聞いていた下人は、老婆の理屈を論破するのではなく、そっくり借用します。

では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。

老婆が「饑死をするのじゃて、仕方がなく」と言えば、下人は「己もそうしなければ、饑死をする体なのだ」と返します。老婆が「大目に見てくれるであろ」と願えば、下人は「恨むまいな」と念を押します。理屈だけでなく、言葉づかいまでもが、みごとに反射しています。老婆が死者に許しを預けたように、下人はいま、生きた老婆へ「恨むな」と迫ります。「仕方がない」は、こうして人から人へ、加害者から次の加害者へと、一枚の許可証のように手渡されていきます。

コメントが言うとおり、下人と老婆は「心理として同じ事をしている」のです。違いは、老婆が長い言葉を費やしてようやく自分を納得させたのに対し、下人はその論理を一足飛びに我がものとした、その速さだけかもしれません。老婆の弁明は、下人にとって反面教師ではなく、いわば手本になってしまいました。「仕方がない」がいったん口にされれば、それは聞いた者の口へ移り、次の悪をあらかじめ許してしまいます。芥川がこの一夜に描いたのは、そういう、言葉の伝染力でした。

論点3:顔を出す語り手——「下人の行方は、誰も知らない」の突き放し

ここまで下人の心の動きばかりを追ってきましたが、その一部始終を語っている「声」にも、目を向けたいと思います。この作品の語り手は、姿を消した公平なカメラではありません。しばしば「作者」として顔を出し、読者に話しかけてきます。

たとえば物語の序盤、下人の境遇を説明したあとで、語り手はこう言い出します。

作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。

そして、いま書いたばかりの一文をみずから訂正し、「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と言い直すほうが適当だ、と付け加えます。物語を語る手つきそのものを、読者の前でわざと見せています。ここで私たちは、この話が誰かの手で選び取られ、組み立てられた記述なのだと、そっと知らされます。

この語り手は、下人の内面を扱うときも、奇妙なほど冷静です。

下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸をするのさえ忘れていた。

恐怖と好奇心を「六分」と「四分」に配分してみせる——まるで感情を計量する科学者のような筆づかいです。平安朝の青年であるはずの下人の気分が、「Sentimentalisme」という西洋語で名指されるのも同じことで、語り手はいつも一歩引いた場所から、対象を観察し、分析しています。この距離のおかげで、私たちは下人に溺れて同情するのではなく、一個の症例のように彼の変化を見つめることになります。

その一歩引いた語り手は、舞台の小道具もまた、冷ややかに配していきます。丹塗りの柱にとまっていた一匹の蟋蟀は、下人が寒さに立ち上がると、「もうどこかへ行ってしまった」と告げられます。門の上を舞い、死人の肉をついばむ鴉。その糞が点々と白くこびりつく石段。鼻をつく死骸の腐爛臭。これらの細部は、ただ雰囲気を出すために置かれているのではありません。人が人を悼むことをやめた世界の手ざわりを一つひとつ積み上げ、下人の転落を「無理もないこと」に見せてしまうのです。語り手は、下人を裁かないかわりに、彼が転がり落ちていく坂を、これ以上ないほど丁寧にならしています。

その、どこまでも分析的だった語り手が、最後の最後に、ふいに口をつぐみます。

老婆の着物を奪った下人は、急な梯子を「夜の底へ」駆け下りていきます。そのゆくえを、語り手はもう追いません。

外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。

下人の行方は、誰も知らない。

あれほど下人の胸の内を計量してきた語り手が、ここへ来て「誰も知らない」と突き放すのです。もう追う必要がなくなったのだ、と。物語が描こうとしたのは下人の心が変わる一部始終であり、それはもう描き終えています。

この先を追ってみたところで、盗みを重ねる下人は、きっと、あの老婆こそ死人の髪を抜いて生きていたのだ、と自分に言い聞かせるでしょう。それは、さきほど老婆が並べた責任転嫁の理屈と、寸分たがわぬ構造です。同じ堂々巡りをなぞるだけの続きを、芥川は書きません。黒い夜へ人物を放り出して、筆をふつりと断ち切ってしまいます。

このコメントは、この結末からさらに踏み込んで、人の心の恐ろしさを言い当てています。きっかけひとつで心は変わり、しかも一度そちらへ傾くと、その決意はかえって強固になります。そうなれば、善悪はもう「自分のものさし」でしか測れません。下人にとっては、いまや自分の世界こそが正解なのです。

語り手が最後に、外部の裁きを——罰も、報いも、教訓も——いっさい示さないまま退場するのは、そのためだと思います。善悪の物差しは、読者の手に残されたままです。あなたなら、この闇に何を見るか——そう問いかけてくる静かな挑発こそが、この突き放す語りの本領なのだと思います。

時代を背負う言葉

さきに触れたように、「羅生門」の骨組みは、平安末の説話集『今昔物語集』巻二十九から来ています。もとの説話では、主人公ははじめから盗みを働くために都へ来た盗人で、楼上で老婆に出くわし、死人の着物も、老婆の着物も、抜き取った髪までも奪って逃げていきます。筋立てそのものは、ごく短いものです。芥川がそこへ加えたのは、盗人になるか饑死するかのあいだで揺れる下人という一人の心と、その心が変わっていく道のりでした。古い挿話の骨に、近代人の内面という肉を盛りつけていく——それが、のちに「王朝物」と呼ばれる芥川の仕事の出発点になりました。

芥川は、この一編だけで『今昔物語集』と手を切ったわけではありません。翌年の「芋粥」も、のちの「藪の中」も、同じ古い説話集を鉱脈として書かれました。とりわけ「藪の中」は、「羅生門」と同じ巻二十九から材を取り、一つの殺人をめぐって人びとの語る「真実」が、証言する者の都合でいくらでも姿を変えていくさまを描き出します。善悪や真実が、それを口にする人間の側でぐらぐらと揺れ動く——「羅生門」で下人と老婆に起きたことは、芥川が生涯くり返し掘り下げていく主題の、いちばん最初の露頭だったといえるでしょう。

だからこの作品の言葉は、二つの時代を同時に背負っています。一方には、平安末の京をよみがえらせる古い語彙があります。朱雀大路、市女笠や揉烏帽子、聖柄の太刀、検非違使——耳慣れない言葉が、荒れ果てた都の手ざわりを運んできます。物語は冒頭から、その荒廃を畳みかけるように語ります。

この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云う災がつづいて起った。そこで洛中のさびれ方は一通りではない。

災害が続き、人が人を捨てるほどに秩序のゆらいだ世界。羅生門が死人の捨て場になっているという設定そのものが、生きるためには手段を選べないという下人の追い込まれ方を、無理なく支えています。

けれども、その古語の世界を見つめる目は、まぎれもなく近代のものです。下人の胸のうちを細かく計量し、その気分を舶来の言葉で名づけるような語り手は、平安の住人ではありえません。芥川は、大正四年(一九一五年)という自分の時代から、遠い平安をふり返っています。旧い説話を借りながら、そこへ「人はなぜ悪をなしうるのか」というきわめて今日的な問いを差し込む——この二重底こそが、「羅生門」を単なる時代物から分けています。

古い言葉で語られているのに、そこで問われているものは、少しも古びていません。都の秩序がゆらいだ非常時に、人の心がどう動くのか。その主題は、時代を越えて読者のもとへ届きます。芥川がこの短い一編に閉じ込めたのは、平安の京の空気であると同時に、どんな時代にも顔を出す、人間の変わり身の早さでした。

私たちの中の下人——「仕方がない」が背中を押すとき

こうして読んでくると、下人はずいぶん遠い時代の、特別に弱い男に思えてきます。けれども、ほんとうにそうでしょうか。

私たちは、めったに「今日から悪人になろう」とは決意しません。悪へ入る扉は、たいてい、もっと小さな呟きの形をしています。「これくらいは、かまわないだろう」「自分だって、これだけ我慢しているのだから」「みんな、やっていることだし」。経費の数字をわずかに丸めるとき、気づかないふりをして列の前へ入るとき、言うべき一言を飲み込むとき。そんな場面で私たちは、決断らしい決断もしないまま、小さな「仕方がない」を一つ、自分に手渡します。

その手つきは、驚くほど下人に似ています。彼もまた、声高に悪を宣言したわけではありませんでした。老婆の話に「きっと、そうか」と念を押したとき、その心はもう、あちら側へ渡ってしまっていたのです。私たちが自分に出す許可も、たいていは、その程度の静けさで下ります。そして一度うなずいてしまえば、二度目のうなずきは、いくらか軽くなります。

こわいのは、その小さな許可が、いつも立派な理由をまとって現れることです。下人には「饑死をする体なのだ」という切実な言い分がありました。私たちの言い分も、その場では、たいてい筋が通って聞こえます。自分だけは事情が違う、今回だけは仕方がない——そう信じられるからこそ、私たちは自分の変わり身に、なかなか気づけません。

だからこの物語は、悪人を裁く話ではなく、一枚の鏡です。下人の変節を「愚かだ」と笑うとき、その笑いは、まさか自分には返ってこないと高をくくっています。けれども、追い詰められた一夜に、あれほど速やかに理屈を乗り換えられる心は、私たちのうちにも、ちゃんと備わっています。下人を笑いきれるかどうか——羅生門は、読み終えた私たちの手もとに、その問いをそっと残していきます。

新古典として、今

私たちはここまで、臆病な一人の下人が、たった一夜のうちに変わってしまう様子を追ってきました。振り返ってみると、この物語のどこにも、彼を悪人へと突き落とす大きな事件はありません。あったのは、「勇気」という言葉の向きが静かに反転したこと、老婆の「仕方がない」がそのまま彼の口へ移ったこと、そしてそれを見届けた語り手が、ふいに彼を闇へ手放したこと。ただ、それだけです。

芥川がこの短い一編で描いてみせたのは、悪人の肖像ではありません。ごくふつうの弱い人間の中で、エゴイズムが芽を吹く、その一瞬の回路です。追い詰められ、都合のよい理由を与えられれば、善良でありたいと願っていた心も、驚くほどなめらかに向きを変えます。その手つきは、平安の下人にも、大正の読者にも、そして百年後の私たちにも、等しく備わっています。だからこの作品は古びません。

時代の衣裳を替えながら、いつの世にも「下人」を見つけ出してしまうのです。私たちが生きるこの時代も、あの雨の一夜と、確かに地続きです。

「羅生門」が新しい古典でありつづけるのは、答えを配らないからでもあります。芥川は、下人を罰しませんでした。悔い改めさせもしませんでした。ただ、一つの心が変わっていく様子を精密に見せて、あとの判断を私たちに預けたまま、筆を置きます。だからこの物語は、読むたびに問いを変えて立ち上がってきます。若いころには下人の弱さに苛立ち、いくらか年を重ねてからは、その弱さが決して他人事でないことに気づく——そうした読み返しに、静かに耐える強度があります。

下人の行方は、誰も知りません。けれども、彼をあの闇へ送り出した心の回路なら、私たちはもう知っています。それをもう一度たしかめるために、この十数分で読み終わる物語は、いつでも私たちを待っていてくれるはずです。


本文の引用は、青空文庫版『羅生門』(底本:「芥川龍之介全集1」ちくま文庫、筑摩書房)に拠りました。

『羅生門』は青空文庫で全文を無料で読むことができます。ぜひ原文にあたってみてください。

芥川龍之介『羅生門』(青空文庫)

なぜユダは「愛しています」と言った直後に「殺して下さい」と叫ぶのか——太宰治『駆込み訴え』を読む

誰よりも大切に思っている相手が、自分の想いにまるで気づいてくれない夜がある。尽くしても尽くしても、目を向けられるのは他の誰か。そんなとき、胸の奥にふっと湧き上がるのは、悲しみだけではありません。愛していたはずの相手を、いっそ壊してしまいたいという、名づけがたい昏い衝動――それに気づいて、自分でも戸惑った経験のある人は、少なくないのではないでしょうか。

もし、その衝動を一切取り繕わず、洗いざらい誰かに打ち明けてしまったら、どうなるでしょう。愛と憎しみのあいだを息もつかせず往復し続ける、そんな独白を書き切った作家がいました。

この作品を、いま読む理由

「愛しています。誰よりも愛しています」と告げた同じ口が、数行のちには「あの人を殺して下さい」と叫ぶ。

語り手は、イエス・キリストを裏切った弟子として名高いユダ。彼はある役人のもとへ駆け込み、師を売り渡す密告をまくし立てるのですが、その独白は、燃えるような愛の告白と、煮えたぎる憎悪のあいだを、息もつかせず往復し続けます。

奇妙なのは、この愛と憎しみが、別々の感情として交互に現れるのではないことです。それらは、同じ一つの根から生えている。ユダはイエスを誰よりも愛しているからこそ、誰よりも激しく憎む。独り占めできない愛が、そのまま殺意に化けていくのです。

この記事では、『駆込み訴え』を「裏切り者の弁明」としてではなく、愛と憎しみが実は同じ感情の裏表であることを、これ以上ないほど生々しく見せてくれるテクストとして読み解いていきます。ユダの叫びは、二千年前の裏切り者のものであると同時に、愛する誰かに認められなかった夜、私たち自身の胸をよぎる昏い声でもある——そう気づくとき、この短い独白は、もう遠い聖書の挿話ではなくなります。

作品の輪郭

いつ、誰が書いたか

作者は太宰治(1909–1948)。『駆込み訴え』は雑誌「中央公論」の1940(昭和15)年2月号に発表されました。名高い『走れメロス』も同じ1940年の作ですから、太宰の中期、筆の脂の乗った時期に書かれた一篇ということになります。

太宰は生涯を通じて聖書に深く親しみ、その言葉を作品のあちこちに引いた作家でした。『駆込み訴え』は、新約聖書が伝えるイエス・キリストの受難——弟子ユダの裏切りによって師が捕えられ、十字架へ向かう物語——を下敷きにしています。ただし太宰は、聖書の記述をなぞるのではなく、視点をまるごと裏返しました。福音書がほとんど語らないユダの内面を、当のユダ自身の口から、一気にまくし立てさせたのです。

なお、太宰がこの作品を口述筆記で一気に仕上げたという逸話も知られますが、その正確なところは伝聞の域を出ません。いずれにせよ、一息で語り切ったかのような独白の疾走感は、本作の大きな魅力です。

どんな話か(結末に触れずに)

物語は、一人の男の切迫した訴えから始まります。

申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。

語り手は、イエスの十二人の弟子の一人、ユダ。彼はある役人(「旦那さま」)のもとへ駆け込み、「あの人(イエス)を殺してくれ」と密告します。作品全体が、このユダの一人称の独白だけで出来ています。聞き手であるはずの役人の言葉は一言も書かれず、ユダの語りの端々から、その存在がうかがえるだけです。

では、ユダはなぜ師を売ろうとするのか。彼の口から溢れ出るのは、理路整然とした告発ではありません。イエスへの熱烈な愛と、腸の煮えるような憎しみ、献身の誇りと、報われぬ恨みとが、混ざり合い、ぶつかり合い、行きつ戻りつする。読者は、その激流に巻き込まれながら、一人の人間の心がほどけていく様を見届けることになります。

「駆込み訴え」という題名そのものが、この作品の性格をよく表しています。駆け込むとは、なりふり構わず、切迫した勢いで飛び込むこと。訴えるとは、抑えきれない思いを他者にぶつけること。ユダの語りは、まさにこの二つの動作がそのまま言葉になったような、息せき切った疾走感を持っています。

冷静な回想でも、整理された告発文でもなく、駆け込みながら訴えているその最中の混乱そのものが、文章の速度に刻み込まれているのです。

論点1:愛していると言いながら、殺そうとする

ユダの独白でまず読者を戸惑わせるのは、愛の言葉と殺意の言葉が、まったく同じ調子で、しかもほとんど間を置かずに並ぶことです。

私はあなたを愛しています。ほかの弟子たちが、どんなに深くあなたを愛していたって、それとは較べものにならないほどに愛しています。誰よりも愛しています。

そう告げた同じ独白の中で、ユダはこうも言います。

ああ、あの人を殺して下さい。旦那さま。

この振れ幅を、単なる錯乱や支離滅裂として片づけてしまうのは簡単です。けれど、ユダの語りを丁寧に追うと、そこには一つの筋が通っています。独り占めできない愛を、殺すことで独占に変えようとするという、倒錯した論理です。

ユダは、自分とほかの弟子たちを、はっきり分けて語ります。ペテロやヤコブたちは「あなたについて歩いて、何かいいこともあるかと、そればかりを考えている」——天国が近づけば右大臣、左大臣にでもなるつもりだろう、と。彼らの信仰には見返りへの下心があるとユダは決めつけ、自分だけがそこから自由だと主張します。

私は、なんの報酬も考えていない。(中略)私は、ただ、あの人から離れたくないのだ。

しかし、この「純粋な愛」の宣言は、次の瞬間、恐ろしい願望へとなだれ込みます。

あの人は、誰のものでもない。私のものだ。あの人を他人に手渡すくらいなら、手渡すまえに、私はあの人を殺してあげる。

「私のものだ」という所有の言葉と、「殺してあげる」という贈与の言葉が、同じ一文の中で手を結んでいる。ここにユダの愛の本質があります。彼が恐れているのは、イエスが自分から離れていくことではなく、イエスが生き続けるかぎり、その愛が他の誰かにも分け与えられ続けることです。

群衆は増える一方で、ユダに向けられる愛の総量は、その分だけ薄まっていく。ならば、いっそ死によってイエスを永遠に自分のものとして固定してしまえばいい——あの人が死ねば、私も一緒に死ぬのだ、とユダは繰り返します。殺すことは、彼にとって破壊ではなく、独占の完成なのです。

さらに深読みすれば、この殺意には、ユダ自身の救済への渇望も透けて見えます。生きているイエスは、ユダをどこまでも意地悪く、冷たく扱う。だがイエスが死に、ユダがそれに殉じて共に死ぬのだとすれば、二人の関係は、生前の主従の上下から、死によって初めて対等な——あるいは永遠に結ばれた——関係へと書き換えられる。

ユダは何度も「私と同じ歳です」「たった二月おそく生れただけ」と年齢の近さを訴えますが、これは、生きているかぎり埋まらない身分の差を、死によって埋め合わせようとする願いの表れとも読めるでしょう。

この愛憎の反転は、一度きりでは終わりません。最後の晩餐の席で、イエスが弟子たちの足を洗って回る場面があります。ユダは、自分の裏切りの決意をイエスに見抜かれているのではないかという怖れと、それでもなお注がれる師の献身とに触れ、束の間、心を入れ替えます。

断然、私は、ちがっていたのだ! 私は潔くなっていたのだ。私の心は変っていたのだ。

ところが、イエスがふと漏らした一言——「みんなが潔ければいいのだが」——を、ユダは自分だけへの当てこすりだと受け取ってしまいます。その瞬間、せっかく差し戻されかけた愛は、ふたたび凍りつき、憎悪へと逆流します。

ええっ、だめだ。私は、だめだ。あの人に心の底から、きらわれている。売ろう。売ろう。あの人を、殺そう。

この場面が示しているのは、ユダの愛憎の反転が、外から見た気まぐれではなく、極度に繊細な承認への感度によって引き起こされているということです。ほんの一言、ほんの一瞬の眼差しの向け方で、彼の心は天国から地獄へと一気に転落する。それだけ、彼にとってイエスからの承認は、生死に関わるほど切実なものだったのです。

太宰治は、後年の『人間失格』でも、他者からの愛を疑い、それでいて誰よりも他者を求める人物を描き続けました。愛されたいという飢餓感が強すぎるとき、人は愛そのものよりも、愛を自分だけのものとして固定する形——ここでは死——に執着してしまう。ユダの独白は、その心理を極限まで押し広げた姿として読むことができます。愛が深いからこそ独占欲が募り、独占できないとわかったとき、その矛先は対象そのものの抹消へと向かう。憎しみは、愛の不在から生まれるのではありません。むしろ、満たされなかった愛の、いちばん濃い部分から生まれるのです。

論点2:「私だけは知っている」——認められたかった男

ユダの独白には、繰り返し現れる一つの言い回しがあります。「私だけは知っている」。

けれども、私だけは知っています。あなたについて歩いたって、なんの得するところも無いということを知っています。それでいながら、私はあなたから離れることが出来ません。

見返りを求めず、それでも離れられない——これこそが愛なのではないか。ユダはそう自問しているようにも読めます。実際、彼は日々のパンのやりくり、群衆からの賽銭の管理、宿舎や衣食の手配まで、地味で骨の折れる世話をすべて一人で引き受けてきました。それでいて、イエスからも他の弟子たちからも、労いの言葉ひとつかけられない。

私はあの人に説教させ、群集からこっそり賽銭を巻き上げ、また、村の物持ちから供物を取り立て、宿舎の世話から日常衣食の購求まで、煩をいとわず、してあげていたのに、あの人はもとより弟子の馬鹿どもまで、私に一言のお礼も言わない。

この不均衡——尽くす自分と、受け取るだけの他者たち——への苛立ちが、ユダの語りの通奏低音になっています。そして、その苛立ちは、周囲への断罪という形で噴き出します。ペテロやヤコブたちは天国という見返りを求めて随伴しているだけの「不純」な弟子であり、イエスに助けられた民衆もまた、恩恵にあずかるだけの存在だとユダは決めつける。自分だけが純粋な献身者だという自己像を守るために、他者の動機をことごとく利己的なものへと切り縮めていくのです。

この歪んだ承認欲求が、最も生々しく噴出するのが、マリヤの香油の場面です。ベタニヤの女マリヤが高価な香油をイエスの足に注いだとき、ユダは無駄遣いだと激しく叱りつけます。しかしイエスは、逆にマリヤを庇い、その仕草を「葬いの備え」だと言って涙ぐむ。

この女が私のからだに香油を注いだのは、私の葬いの備えをしてくれたのだ。

自分ではなく、行きずりの女の献身にイエスが心を動かされている——この瞬間、ユダの中で何かが決定的に壊れます。彼が感じているのは、単なる嫉妬(ジェラシィ)ではなく、自分の献身は認められないのに、他人の些細な行為はすぐに認められるという、承認の不公平への激しい憤りです。

さらに見逃せないのは、ユダがこの怒りを補強するために、イエスを「神ではなく人間である」と決めつけていく動きです。エルサレムの宮で、イエスが両替商の台を蹴り倒し、甲高い声で怒鳴り散らす場面——

おまえたち、みな出て失せろ、私の父の家を、商いの家にしてはならぬ

この取り乱した姿を、ユダは「気がふれている」「破れかぶれ」「幼い強がり」と評します。神の子であれば見せるはずのない、人間くさい乱れ。ユダがこの人間性を執拗に指摘するのは、それが自分にもわかる弱さだからです。神になら敵わなくても、人間になら対等になれる。そしてユダが本当に欲しかったのは、群衆全体を救う神ではなく、自分ひとりだけをまっすぐに見つめてくれる、一人の人間だったのでしょう。認められない献身は、やがて相手を「格下げ」することでしか自尊心を保てなくなる。ユダの憎悪は、満たされなかった承認欲求が、行き場を失って肥大した果てにあるのです。

論点3:嘘つきは誰か——信じてほしいと願う者の告白

ユダの独白は、イエスについて語れば語るほど、その足場を失っていきます。愛を語ったかと思えば憎悪を語り、純粋さを誇ったかと思えば嫉妬に狂う。ついには、自分の言葉そのものへの信頼すら投げ捨てる瞬間が訪れます。

あの人は、私の女をとったのだ。いや、ちがった! あの女が、私からあの人を奪ったのだ。ああ、それもちがう。私の言うことは、みんな出鱈目だ。一言も信じないで下さい。

語っている本人が、自分の証言を撤回する。読者としてまず引っかかるのは、これほど言動が乱れ、前言を翻し続ける語り手を、私たちはどこまで信じてよいのかという疑問です。この乱心ぶりを見せつけられたあとでは、ユダの語る「イエス」の人物像さえ、額面どおりには受け取りにくくなります。

けれど、この揺れ動く独白のなかで、ただ一つ揺るがないものがあります。「あの人を殺してくれ」という殺意です。

愛が裏返り、承認欲求が裏返り、自己弁護が裏返っても、密告という行為そのものへ向かう意志だけは、最後まで撤回されません。ユダは、役人に対しては確かに「情報」という対価を差し出しており、その意味では、役人との間には一応の信頼関係が成立していると言えるでしょう。しかし、肝心のイエスからどう思われているかは、最後まで判然としません。もっとも、ユダ自身はもはやそれを気にかけていない様子です。彼が欲しかったのはイエスの評価ではなく、イエスの死そのものだったからです。

そして物語の最後、ユダは決定的な言葉を口にします。

私は、あの人を愛していない。はじめから、みじんも愛していなかった。(中略)私は、金が欲しさにあの人について歩いていたのです。

これまで語られてきた、燃えるような愛も、痛切な承認欲求も、ジェラシィも——その一切を、ユダは自らの口で全否定してしまうのです。役人から銀三十を渡されたとき、ユダは一度は突っぱねかけますが、結局それを受け取り、自らを「商人のユダ」と名乗って幕を引きます。

私は所詮、商人だ。いやしめられている金銭で、あの人に見事、復讐してやるのだ。(中略)私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。

この最後の反転を、どう読めばよいのでしょうか。一つの見方は、これもまた自己欺瞞だというものです。愛していたと認めるのは、あまりに惨めで痛い。ならばいっそ、はじめから金目当てだったことにしてしまえば、少なくとも「裏切られた哀れな男」でいなくて済む。金銭という即物的な理由に逃げ込むことで、ユダは最後の最後まで、自分の傷ついた心を守ろうとしているのかもしれません。

もう一つ見えてくるのは、太宰治という作家自身の姿です。聖書において、ユダは弟子の中でただ一人、絶対の裏切り者として名指しされる存在です。太宰は、その"絶対悪"に、これほど饒舌で、これほど矛盾だらけの一人称の声を与えました。愛憎のあいだを揺れ動き、前言を翻し、自分の言葉さえ信じきれないユダの独白は、ある意味で、もし太宰自身がユダの立場に立たされたなら、という想像の産物のようにも読めます。

人の思惑は、ときに本人にすら説明のつかないほど揺れ動くものです。太宰はその揺れを誤魔化さず、隠さず、むしろ作品の中心に据えました。聖書という不動の物語に、これほど人間くさい、ブレて、迷って、それでも語り続けるしかない一人の人間を書き込んだこと——それこそが、この短編の企みなのだと思います。

時代を背負う言葉

『駆込み訴え』が発表されたのは、1940(昭和15)年2月、雑誌「中央公論」誌上でした。同じ年には、太宰の代表作として今なお広く読まれる『走れメロス』も書かれています。友情と信頼を高らかに歌い上げる『走れメロス』と、愛と憎しみのあいだで引き裂かれる『駆込み訴え』が、同じ年、同じ作家の手から生まれたという事実は、それ自体興味深いものです。人間の信頼を清冽に描く筆と、その裏側にひそむ執着や独占欲を容赦なく描く筆が、太宰のなかで同時に動いていたことになります。

太宰治という作家を語るうえで欠かせないのが、聖書との深いかかわりです。太宰は生涯にわたって聖書の言葉に親しみ、その文体や逸話を多くの作品に取り込みました。『駆込み訴え』は、その関心がもっとも直接的な形で結実した一篇と言えるでしょう。作中には、新約聖書からの引用と思われる文言が随所に織り込まれています。

「狐には穴あり、鳥には塒、されども人の子には枕するところ無し」

「シオンの娘よ、懼るな、視よ、なんじの王は驢馬の子に乗りて来り給う」

こうした聖句を、ユダは自分に都合よく解釈し直し、時にせせら笑いながら引用してみせます。信仰の言葉を、愛憎に取り憑かれた一人の人間の口を通して語らせる——この構えそのものが、太宰の聖書への向き合い方の一端を示しているように思われます。敬虔な信仰告白としてではなく、むしろ聖なる物語の内側に人間くさい弱さを見出そうとする視線です。

なお、太宰がこの作品を、口述筆記によって一夜のうちに書き上げたという逸話も伝えられています。真偽のほどを確かめる術は今の私たちにはありませんが、もしそれが事実に近いのだとすれば、句読点少なく息もつかせず繰り出されるユダの独白の疾走感は、書くという行為そのものの速度をも反映しているのかもしれません。

1940年前後の日本は、太宰個人にとっても、社会全体にとっても、けっして平穏な時期ではありませんでした。しかし、時局と作品の関係を軽々に結びつけることは慎むべきでしょう。確かに言えるのは、太宰がこの時期、聖書という普遍的なテクストを借りながら、時代を超えて通用する人間心理——愛と憎しみの裏表——を描こうとしたという一点です。だからこそ『駆込み訴え』は、発表から八十年以上を経た今も、色褪せずに私たちの手元に届いているのです。

日常に地続きの問い——愛が裏返るとき

二千年前の裏切りの物語は、遠い聖書の挿話であるはずなのに、読んでいるとどこか身に覚えのある感触が残ります。誰かを深く応援していたのに、あるとき何かのきっかけで、その熱がそっくり反転してしまう——そんな経験は、決して珍しいものではないはずです。

「推し」と呼ばれる誰かに人生の時間を注ぎ込み、誰よりも理解しているつもりでいたのに、その人が自分の知らないところで別の誰かを大切にしているのを知った瞬間、胸に湧き上がる昏い感情。恋人や親友に対して、見返りを求めていないつもりでいながら、相手が自分以外の誰かに心を寄せた途端、抑えきれない苛立ちに変わってしまう瞬間。あるいは、長年尊敬してきた上司や師にあたる人が、ある日ふと見せた人間くさい弱さに、失望とも安堵ともつかない複雑な感情を抱いてしまう瞬間。SNSの世界では、昨日までの熱心な「推し」が、たった一つのすれ違いをきっかけに、翌日には誰よりも手厳しい批判者に変わることさえあります。

そう考えると、ユダを「特異な裏切り者」として自分と切り離すことは、いくらか難しくなります。彼が抱えていたのは、誰にも覚えのない特殊な感情ではなく、愛が深いほど、認められなさへの苦しみもまた深くなるという、ごくありふれた心の力学だったからです。ユダは「私だけは知っている」と繰り返しながら、実のところ、自分の愛を誰よりも理解してほしいという、痛切な承認への渇きを抱えていました。そしてその渇きが満たされないとき、愛の対象そのものを傷つけたいという衝動が、静かに、しかし確実に育っていく。

『駆込み訴え』が私たちに突きつけるのは、「裏切り者を裁く」という安全な立ち位置ではありません。むしろ、私たち自身の胸のうちにも、認められなさが積もれば同じように昏いものが芽生えうるのだという、居心地の悪い自覚です。誰かを深く愛したことのある人なら、ユダの独白の、少なくとも一節くらいには、覚えのある震えを感じてしまうのではないでしょうか。

新古典として、今

私たちは、愛と憎しみを別々の箱に入れて考えたがります。愛は温かいもの、憎しみは冷たいもの。愛する人と憎む人は、別の人でなければならない——そう思い込むほうが、心はずっと楽だからです。しかし『駆込み訴え』は、その心地よい区分けを、容赦なく突き崩します。ユダにとって、愛と殺意は、決して別の感情ではありませんでした。同じ一つの激情が、ある瞬間には愛と呼ばれ、次の瞬間には憎しみと呼ばれていただけなのです。

太宰治は、聖書という不動のテクストのなかで、ただ一人「絶対の裏切り者」とされてきた人物に、これほど生々しい一人称の声を与えました。ユダを単なる悪として断罪するのではなく、その内側に分け入り、愛されたかった、認められたかった、独占したかったという、あまりにも人間くさい欲望をさらけ出してみせたのです。裏切りという行為の裏側に、これほど切実な愛の希求があったのだと知ったとき、私たちはもう、ユダを一方的に断罪することができなくなります。

この作品が古びないのは、キリスト教の物語としてではなく、人間の心の構造そのものを描いているからです。愛が深いほど、その愛が受け止められないときの痛みも深くなる。痛みが深いほど、それを裏返した憎しみもまた深くなる。この単純で、しかし逃れがたい心の力学は、二千年前のエルサレムでも、令和の今日でも、変わらず私たちの胸のうちで働いています。

『駆込み訴え』が突きつけてくるのは、「あなたも、条件さえ揃えばユダになりうる」という、決して心地よくはない真実です。けれどその真実を、これほど濃密な独白の形で受け取れることは、むしろ得がたい経験だと思います。誰かを深く愛したことのある読者であれば、この短い物語を閉じたあとも、ユダの声は、ふとした瞬間に耳の奥で響き続けるはずです。


本文の引用は、青空文庫版『駆込み訴え』(底本:「走れメロス」新潮文庫、新潮社)に拠りました。

『駆込み訴え』は青空文庫で全文を無料で読むことができます。ぜひ原文にあたってみてください。

太宰治『駆込み訴え』(青空文庫)

なぜ杜子春は、仙人になれなくて「嬉しい」のか? ー 芥川龍之介『杜子春』

何があっても動じない、強い心がほしい。

そう願ったことのある人は、少なくないはずです。傷つかないように、振り回されないように、いっそ感情を殺して生きられたら、どんなに楽だろう——。けれど、もしそのために心そのものを手放さなければならないとしたら、それでもあなたは「強さ」のほうを選ぶでしょうか。いまから百年あまり前、ある童話の主人公が、まさにその選択の岸辺に立たされました。傷つかない超越者になるか、傷つく一人の人間にとどまるか。彼が最後に上げた、たった一言の叫びから、考えてみたいと思います。

この作品を、いま読む理由

ここで作品の名を明かします。芥川龍之介の『杜子春』。児童雑誌『赤い鳥』に発表された、教科書や絵本でおなじみの童話です。金持ちの息子・杜子春が仙人を目指し、峨眉山で恐ろしい試練を受ける——子どものころに読んだ、という方も多いでしょう。

けれど、この物語を大人になって読み返すと、ずいぶん違った顔を見せます。子ども向けの冒険譚の底に、かなり手厳しい問いが沈んでいるのです。杜子春が求めた「仙人」とは、何があっても動じない、傷つかない存在のこと。いいかえれば、情を捨てて苦しみから解き放たれた、超越者のことでした。そして物語は、その超越にあと一歩まで迫った彼を、わざと失敗させます。

この記事では、『杜子春』を〈仙人になり損ねること=人間であることの肯定〉として読んでみます。なぜ彼は仙人になれなかったのか。そして、なれなかったことが、なぜ本人にとって「かえって嬉しい」ことだったのか。強く、動じない自分に憧れがちな私たちにこそ、この百年あまり前の童話は、静かに問いかけてくるはずです。

作品の輪郭

いつ、誰が書いたか

『杜子春』が発表されたのは、一九二〇年(大正九年)七月。鈴木三重吉が主宰した児童雑誌『赤い鳥』に載りました。作者の芥川龍之介はこのとき二十代の後半で、すでに文壇の花形でしたが、一八九二年に生まれ、一九二七年、三十五歳の若さで自ら世を去ったとされます。芥川は『赤い鳥』に、名高い『蜘蛛の糸』をはじめ、子ども向けの作品をいくつも寄せており、『杜子春』もその一つです。

物語のもとになったのは、中国・唐代の伝奇小説『杜子春伝』だと言われます。芥川はこの古い説話を下敷きにしつつ、細部を大きく作り替えました。とりわけ結末は、原典とは異なる方向へ——「人間らしさ」を高くかかげる方向へと導かれており、そこに芥川という書き手の刻印が、はっきりと見てとれます。

どんな話か(結末に触れずに)

舞台は唐の都・洛陽。財産を使い果たした若者・杜子春は、西の門の下で途方に暮れているところを、片目眇の老人に声をかけられます。老人の教えるままに地を掘ると、車いっぱいの黄金が現れる。杜子春は大金持ちになりますが、贅沢のかぎりを尽くして再び無一文に。それが二度くり返されたとき、彼は金に群がっては去る人間の薄情に、すっかり嫌気がさしてしまいます。そして、老人がじつは仙人だと見抜き、弟子にしてほしいと願い出る。老人は彼を空のかなた、峨眉山へと連れ去り、「何があっても、声を出してはならぬ」と言い残して姿を消します——物語がほんとうに試すのは、ここからです。

論点1:金の切れ目が縁の切れ目——富に群がる関係の空しさ

杜子春の物語は、同じ光景を二度くり返します。一文無しの青年が、老人に教わった黄金で一夜にして大金持ちになる。すると——

するとかういふ噂を聞いて、今までは路で行き合つても、挨拶さへしなかつた友だちなどが、朝夕遊びにやつて来ました。

昨日まで挨拶もしなかった者が、金の噂を聞きつけて押しかけてくる。半年のうちに、洛陽じゅうの名士や美人で杜子春の家に来ない者はいないほどになります。

その暮らしぶりを、芥川はこれでもかと書き連ねます。日に四度も色の変わる牡丹、放し飼いの白孔雀、西洋渡りの葡萄酒、刀を呑んでみせる魔法使い——。

玉を集めるやら、錦を縫はせるやら、香木の車を造らせるやら、象牙の椅子を誂へるやら

語り手が「一々書いてゐては、いつになつてもこの話がおしまひにならない」と匙を投げるほどの、豪奢のかぎりです。けれど、これほどの物量が並べ立てられるほど、読むうちにかえって空々しさが募ってきます。物がどれだけ増えても、そこに心が一つも通っていないからでしょう。事実この宴に集った客たちは、やがて金の切れ目とともに、きれいに姿を消してしまうのです。

ところが金が尽きれば、光景はまさに反転します。

いや、宿を貸す所か、今では椀に一杯の水も、恵んでくれるものはないのです。

椀一杯の水すら惜しまれる。ここで立ち止まって問いたいのは、そもそも彼らは杜子春の「何」に群がっていたのか、ということです。

読者としてまず考えたいのは、お金とは本来なんだったのか、という一点です。

もともとお金は、物々交換を成り立たせるための共通の言語であり、その根には「信頼」があったはずでした。ところがいつしか、お金を持つこと自体が「豊かさの象徴」というステータスに変わってしまう。人々が杜子春に見ていたのは、彼という人間ではなく、彼にまとわりついた「豊かさ」という記号だったのです。だとすれば、その記号が消えた瞬間に人が去るのは、むしろ理の当然でした。見られていたのは、初めから杜子春その人ではなかったのですから。

この見立ては、現代にそのまま重なります。私たちの世は、信頼や人柄といった測りにくいものを、目に見える数字へ置き換えることに、いよいよ長けてきました。預金の額、年収、フォロワーの数、「いいね」の総和——。それらは本来、その人への信頼を映すための目盛りだったはずです。ところが目盛りのほうが独り歩きを始めると、人は中身ではなく数字に群がるようになる。数字が大きいうちは人が集まり、しぼめば潮が引くように去っていく。杜子春の洛陽と、私たちのタイムラインとのあいだに、いったいどれほどの違いがあるでしょうか。

杜子春自身も、二度の栄華と没落を経て、その仕組みにようやく気づきます。

人間は皆薄情です。私が大金持になつた時には、世辞も追従もしますけれど、一旦貧乏になつて御覧なさい。柔しい顔さへもして見せはしません。

彼が「人間に愛想がつきた」と言い切るとき、そこには単なる恨み節を超えた、冷たい認識があります。金でつながった関係は、金が消えれば消える。ならば人間そのものが信じるに値しない——彼はそこまで結論してしまう。この絶望こそが、次章で見る「仙人になりたい」という願い、つまり人間をやめて超越者になろうとする願いの、出発点になっています。

見逃せないのは、芥川がこれを書いてから百年が過ぎても、この構図がいささかも古びていないことです。羽振りのいいときだけ寄ってくる取り巻き、数字が伸びているあいだだけ群がるフォロワー——私たちはいまも、お金や人気を、その人への信頼とたやすく取り違えます。杜子春を薄情な世間の被害者として笑うのはかんたんです。けれど、彼が見た人々の手のひらの返し方は、そっくりそのまま、現代の私たちの街にも並んでいるのではないでしょうか。

論点2:「声を出すな」——仙人になる条件は、情を捨てること

人間に絶望した杜子春が選んだ道は、人間をやめること、すなわち仙人になることでした。師となった鉄冠子は、峨眉山の岩の上に彼を残し、たった一つの掟を課します。

多分おれがゐなくなると、いろいろな魔性が現れて、お前をたぶらかさうとするだらうが、たとひどんなことが起らうとも、決して声を出すのではないぞ。もし一言でも口を利いたら、お前は到底仙人にはなれないものだと覚悟をしろ。好いか。天地が裂けても、黙つてゐるのだぞ。

仙人になる条件は、ただ一つ。何があっても声を出さないこと。この禁令の意味は、見た目よりずっと深いものです。声を出さないとは、単に口をつぐむことではありません。恐怖にも、苦痛にも、驚きにも心を動かされない——つまり、情のいっさいを封じることを指しています。

試練は容赦がありません。爛々と目を光らせた虎と、炎のような舌を吐く白蛇が襲いかかる。黒雲と雷が峨眉山を覆い、赤い火柱が頭上に落ちる。金の鎧の神将が現れ、三叉の戟で杜子春を一突きに突き殺してしまう。魂は地獄へ堕ち、剣の山、焦熱の焔、極寒の氷と、あらゆる責苦がその身を裂きます。それでも——

それでも杜子春は我慢強く、ぢつと歯を食ひしばつた儘、一言も口を利きませんでした。

彼は自分がどれほど苦しめられても、声を上げません。恐怖を殺し、痛みを殺し、命を落としてさえ黙り通す。これは驚くべき精神力ですが、同時にどこか薄ら寒い光景でもあります。それはほとんど、人の心を失くした者の姿に見えるのです。

しかも魔性たちは、ただ杜子春を痛めつけるだけではありません。虎や蛇のような外からの脅威が去ると、今度は金の鎧の神将が現れ、なんとか口を割らせようと執拗に迫ります。

返事をしないか。――しないな。好し。しなければ、しないで勝手にしろ。その代りおれの眷属たちが、その方をずたずたに斬つてしまふぞ。

試練の狙いが、痛めつけること自体ではなく、あくまで一言を「言わせる」ことにあるのがわかります。つまり彼が守り抜くべきなのは、命ではなく沈黙のほうでした。声を出さないとは、脅されても、殺されても、自分の内側をいっさい外へ漏らさないということ。それは強靭であると同時に、他者との回路を完全に閉ざすことでもあります。

ここに、この物語のいちばん深い皮肉が仕込まれています。思い出してください。

論点1で杜子春を苦しめていたのは、ほかならぬ「人の心」でした。心があるから欲が生まれ、欲があるから金に踊らされ、蕩尽しては貧に落ちる。人間の薄情に傷つくのも、傷つく心があればこそです。だとすれば、その心をまるごと捨ててしまえば——もう何にも動じず、何にも傷つかずにすむ。仙人とは、いわば苦しみをゼロにまで削り落とした存在です。けれどそのゼロは、喜びも、愛も、他者への思いやりも、すべて差し引いたあとに残る、静かな虚無でもあります。

苦しみたくなければ、心を捨てればいい。動じたくなければ、情を殺せばいい。杜子春はいま、その極限に達しようとしています。天地が裂けても黙っていられる、完璧な無情のふちに。——けれど芥川は、この完璧さを、たった一つの声で打ち砕くことになります。

論点3:「お母さん」——情に負けて、人間に戻る

完璧な無情に達しかけた杜子春を打ち砕くのは、たった一つの存在でした。母です。

閻魔大王は、畜生道に堕ちて痩せ馬の姿になった杜子春の父母を引き出し、鬼たちに鞭で打たせます。肉は裂け骨は砕け、血の涙を流す馬。それでも杜子春は黙っています。自分が地獄の責苦に耐えたように、彼は他人の——たとえ親の——苦しみにも、耐えようとする。仙人になるとは、そういうことのはずでした。ところが、半死の母の口から漏れたのは、恨みでも悲鳴でもありませんでした。

見のがせないのは、その声の小ささです。神将の怒号にも、雷のように轟く閻魔の詰問にも、杜子春は眉ひとつ動かしませんでした。ところが——

するとその時彼の耳には、殆声とはいへない位、かすかな声が伝はつて来ました。

彼を最後に打ち砕いたのは、あらゆる大声ではなく、消え入りそうなほど小さな、母のひと声だったのです。脅しや威嚇という「大きな声」がついぞ届かなかった心の芯へ、無償の情だけが、音もなく忍び込んでいく。ここには、力ではなく情こそが人を動かすという、静かな真実が置かれています。

心配をおしでない。私たちはどうなつても、お前さへ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰つても、言ひたくないことは黙つて御出で。

自分がこれほど打たれてなお、母は息子の沈黙を——つまり息子が仙人になる望みを——守ろうとするのです。ここには、論点1で見た金の関係とも、論点2で見た無情の修行とも、まったく異質な何かがあります。見返りをいっさい求めない、無償の情。その一撃の前で、杜子春の無情はもろくも崩れます。

両手に半死の馬の頸を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母さん。」と一声を叫びました。

自分がどれほど傷つけられても声を上げなかった彼が、母のためには、仙人になる望みを捨ててでも声を上げた。彼はここでようやく、情を出すことができたのです。そしてその瞬間、彼は仙人になり損ね——人間に戻ります。

注目したいのは、師の鉄冠子がこの失敗をまったく責めないことです。それどころか——

もしお前が黙つてゐたら、おれは即座にお前の命を絶つてしまはうと思つてゐたのだ。

もし黙り通していたら殺していた、と師は言う。つまり、この試練の本当の合格条件は、声を出さないことではなく、声を出してしまうことだったのです。無情に徹しきる者は、そもそも生きるに値しない——芥川はこの逆説を、物語の芯に据えています。仙人になるという「成功」は人間であることの放棄にほかならず、なり損ねるという「失敗」こそが、人間であることの証だった。

ここで、師という存在の意味も裏返ります。仙術を授けるはずの鉄冠子は、じつは杜子春を仙人にするつもりなど、はじめからなかったのかもしれません。

彼が本当に見ようとしていたのは、この若者のなかに人間らしい情が残っているかどうか——ただその一点だったように思えます。無情に徹しきれる者を、師はむしろ拒みました。人の心を捨ててまで手に入れる超越に、そもそも価値を認めていなかったのでしょう。試練の名を借りた、これは一種の救済だったのだと思います。

そして杜子春がたどり着く答えは、静かで、力強いものです。

何になつても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。

ここが肝心です。杜子春が最後に手にしたのは、金でも仙術でもない、第三のもの——見返りを求めない情、いいかえれば人と人との「信頼」でした。金でつながる関係は金が消えれば消え(論点1)、無情の超越は虚無に行き着く(論点2)。その両方をくぐり抜けた彼は、どちらにも負けないものを掴んだのです。だからこそ、鉄冠子が最後に与える桃の花咲く家は、ただの褒美ではありません。もう一度、人の世でやり直すための場所です。そこにまた、豊かさに群がる者たちが現れたとしても——今度の杜子春は、もう振り回されないでしょう。まやかしを見分ける情を、彼はもう手にしているのですから。

この結びに、桃の花が咲いているのも見のがせません。仙人になった杜子春を待つはずだった桃源郷ではなく、人の世の片隅に咲く、ありふれた春の花です。芥川はあえて、超俗の楽園ではなく、俗世でのささやかな暮らしのほうへ、主人公を送り返しました。どこか遠くの理想郷へ逃げこむのではなく、この不完全な人間の世界で、それでも正直に生きていくこと——桃の花は、そんな地に足のついた再出発を、静かに祝福しているように見えます。

時代を背負う言葉

『杜子春』が生まれた場所を知ると、この童話の狙いがいっそう見えやすくなります。発表の舞台となった『赤い鳥』は、作家の鈴木三重吉が一九一八年(大正七年)に創刊した児童雑誌でした。それまで子ども向けの読み物といえば、教訓を詰めこんだ通俗的なお伽噺が幅を利かせていました。三重吉はそれに飽き足らず、子どもの澄んだ感性にふさわしい、芸術的にすぐれた童話や童謡を届けようとしたのです。この呼びかけには、芥川龍之介のほか、北原白秋ら当代一流の書き手が応じました。『杜子春』も『蜘蛛の糸』も、その運動のなかから生まれています。

芥川といえば、『羅生門』や『地獄変』のように、人間の暗部を鋭くえぐる技巧的な短編で知られます。その同じ書き手が、子どもにも読める平明な言葉で、これほど普遍的な問いを差し出した——そこにこの作品のおもしろさがあります。むずかしい理屈は一つも使わずに、「人として何が大切か」という重い主題を、物語の運びだけで感じさせてしまうのです。

げんに芥川は、その二年前に同じ『赤い鳥』へ寄せた『蜘蛛の糸』でも、自分ひとり助かろうとする人間の利己心を、容赦なく描いていました。金に群がる友を見限る杜子春のまなざしは、この作者が人間の醜さを知り抜いていたことの、もう一つの証でもあります。ただし『杜子春』で芥川は、その醜さを見据えたうえで、なお人を信じるに足る何か——母の無償の情——を、物語の底にそっと置きました。人間に絶望しきらず、といって甘くも見ない。この両にらみのまなざしこそ、作品に深みを与えているものです。

もう一つ見落とせないのが、この話がまったくの創作ではないことです。『杜子春』は、中国・唐代の伝奇小説『杜子春伝』を下敷きにした翻案だと言われます。芥川はもともと、今昔物語や中国の古典に材を求め、それを近代の小説へ仕立て直す名手でした。もっとも、下敷きにしたとはいえ、そっくり訳したわけではありません。とりわけ結末は、原典とは違う方向へ大きく舵を切ったとされ、「人間らしい、正直な暮し」を選ぶという明るい着地は、芥川自身の手が加えた部分だと考えられています。

古い異国の説話に、大正という時代の空気——子どもの人格を尊び、人間らしさを信じようとする気運——を吹き込むこと。芥川はそれを、わずか九千字あまりの童話のなかでやってのけました。百年を経てなお色あせないのは、借り物の枠を使いながら、そこに芥川自身の切実な問いを込めたからにほかなりません。

声を上げてしまう、という強さ

杜子春が憧れた「何があっても動じない心」は、じつは私たちの多くが、ひそかに欲しがっているものではないでしょうか。

打たれ強いこと、傷つかないこと、感情に振り回されないこと。今の世の中では、それらはおおむね「強さ」として称賛されます。人前で取り乱さない。弱音を吐かない。何を言われても平気な顔でいる。ネットの上では、批判をものともしない「無敵」の態度が、しばしば憧れの的になります。私たちは、心を波立たせないことを、大人の成熟だと思いこんでいる節があります。

弱音を吐けば「メンタルが弱い」と見なされ、涙を見せれば「大人げない」とたしなめられる。感情をうまく隠せる人ほど、有能で洗練されていると受け取られる——そんな空気を、私たちはどこかで吸っています。傷つくこと自体が、まるで能力の欠如ででもあるかのように。

けれど、その理想を突きつめた先にあるのが、杜子春の目指した仙人でした。動じないとは、裏を返せば、何にも心を動かされないということ。傷つかないとは、誰かの痛みにも痛みを感じないということ。感情を殺しきったその境地は、たしかに楽かもしれませんが、同時に、ぞっとするほど寂しい場所でもあります。

杜子春は、その寂しさの一歩手前で、声を上げてしまいました。愛する者が苦しむのを前にして、平気ではいられなかった。彼にとってそれは「失敗」でしたが、私たちの目にはむしろ、人間がまだそこに生きている証のように映ります。だとすれば、問い返すべきなのはこちらのほうかもしれません。私たちが手に入れたがっている「強さ」とは、ほんとうに強さなのでしょうか。それは、大切な誰かのためにさえ動かなくなった、心の鈍さのことではないでしょうか。

そしてもう一つ。杜子春を人間に引き戻したのは、彼自身の強さではなく、見返りを求めない誰かの情でした。私たちのまわりにも、数字が増えても減っても態度の変わらない人が、きっと幾人かはいるはずです。ふだんは当たり前のようにそばにいて、うまくいっているときには、むしろ煙たくさえ感じてしまう相手。杜子春が最後に思い出したのが、地位でも財産でもなく、母のかすかな声だったことを、私たちはもう少し重く受け止めてもいいのかもしれません。

思わず声が出てしまうこと。取り乱してしまうこと。誰かのために平静を失ってしまうこと。それらを弱さと決めつけて押し殺す前に、杜子春の叫びを思い出してもいいのかもしれません。動じないことよりも、動じてしまえることのほうが、ときにずっと人間らしく、そして得がたいのだ、と。

新古典として、今

『杜子春』は、成功の物語ではありません。むしろ、二重三重の失敗の物語です。金持ちになっては二度も財産を失い、最後は仙人にすらなり損ねる。世間の物差しで測れば、杜子春はしくじってばかりの男です。

けれど芥川は、その失敗の連なりの果てに、いちばん確かなものを置きました。金で買える豊かさは、金とともに消えました。情を捨てた先の超越は、虚無に行き着くはずでした。二つの道の行き止まりを見たあとで、杜子春がようやくつかんだのは、鞭に打たれてなお息子を案じる母の声——見返りを求めない、たった一つの情でした。仙人になるという「勝ち」を捨てて、彼はそれを選んだのです。いや、選んだというより、思わず選んでしまった。その「思わず」にこそ、人間の芯があります。

私たちは今も、動じない強さや、何にも縛られない自由に憧れます。傷つかずに済むなら、そのほうがいいと思ってしまう。けれどこの百年あまり前の童話は、そっと首を横に振ります。傷つくからこそ人は誰かを思え、動じてしまうからこそ声を上げられる。仙人になり損ねること——それは負けではなく、人間であることを引き受けるという、静かな肯定なのだ、と。

物語の最後、鉄冠子は杜子春に、桃の花の咲く家を与えて去ります。派手な黄金でも、不老不死の仙術でもなく、ただ花の咲く一軒の家を。それは、人間としてもう一度生きていくための、ささやかな、けれど確かな贈り物でした。あなたがもし、いつか声を上げるべき岸辺に立ったなら——そのとき思い出すのは、きっと杜子春の、あのたった一言の叫びのはずです。


本文の引用は、青空文庫版『杜子春』(底本:「現代日本文学大系43 芥川龍之介集」筑摩書房、1968年)に拠りました。引用は原文の表記(歴史的仮名遣い)のままとしています。

『杜子春』は青空文庫で全文を無料で読むことができます。ぜひ原文にあたってみてください。

芥川龍之介『杜子春』(青空文庫)